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園長の日記

すいすいタイムで感じた成長

2021/02/16

今日は久しぶりにすいすいの子だちに絵本を読みました。年長組すいすい組はいま、春からの小学校生活に慣れるための準備活動を行っています。大袈裟に言えば就学のための「アプローチカリキュラム」です。プロ野球に例えて砕けていうと、小学生になるための「春季キャンプ」に入っています。

どんなことをしているのか、というと、小学校生活のリズムに慣れるために、小一時間ごとに活動に区切りをつけたり、次の小一時間のために誰に言われなくても自分でトイレを済ませるようにしたり、5時間目を想定してお昼寝の時間に活動をしたりしています。

さらに小学校ではクラス担任以外に音楽や美術など「専科」の先生が授業をもったりします。ですから午後の5時間目に「すいすいタイム」を設けて、年長の担任以外の先生が、色々な「授業」をしています。今日は園長の専科の番だったので、絵本の読み聞かせと実験をしました。

絵本は小学生向けの名作『大どろぼうホッツェンプロッツ』。お話は単純なのですが、ちょっと聞きなれない言葉が随所に出るので、「ちょっと難しくても楽しい」という体験を味わってもらいたいという趣旨です。パソコンにPDFで取り込んだ絵本をスクリーンに大きく映し出して、ポインターで文字を辿るように読んであげます。今、どの文字をどのように読んでいるのかもわかるような読み聞かせ方をやってみました。これだと挿絵を「見せて、見せて」の争奪戦が起きません。絵本が大きなスクリーンに紙芝居のように映し出され、いかにも小学校のICTを使った授業のような雰囲気です。

30分ぐらいすると疲れてきたので、簡単な「実験」をして気分転換を図りました。地面に伏せた紙コップの上に立ってみます。そっと乗ると、紙コップは潰れずに立つことができます。紙コップの淵に偏った力を入れると、グシャっと潰れます。それを確かめた上で「じゃあ、9人が全員乗れるためには、紙コップをいくつ、どう並べたらいいかな」というテーマを探究してみました。

お昼寝マットを載せる。にこにこのクライミングのマットを載せる、などのアイデアがでてきたのは面白い展開でした。こままわしの台に乗ることになったら、「小林先生が作ってくれたんだから、乗って壊れるかもしれないからダメだよ」と嬉しい反対論も出たりして、こままわしの台への愛情も感じた瞬間でした。

最後の残り時間に何をするかという話になった時「レゴやりたい」「RaQがいい」と言った声が出ると「そんなのいつだってできるじゃん。園長先生がやってくれる時間はそんなにないんだから、絵本の続きがいい」という意見も出たり。なんとも頼もしい年長さんになってきた気がしたのでした・・。

成長展のためのミニ連載(14)最終回 意味を求めて

2021/02/14

明日15日(月)から成長展が始まります。園全体の行事としては、これが5大行事の最後の行事になります。春の親子遠足(コロナで実施できず)、夏の納涼会、秋の親子運動遊びの会、冬のお楽しみ会、そして年度末の締めくくりとなる成長展です。この一年間の子どもの一人ひとりの成長、育ち、発達を「教育の五領域」の観点から見てもらうのと、今年は特別展示として「模倣」をテーマに取り上げて、その年齢ごとにどのように発達していくのかについても動画で見てもらいます。親御さんと私たち保育者と一緒に、子どもたちの育ちをじっくりと味わい、賞賛し合いましょう。

◆模倣力の発達の大まかな筋道は

子どもの模倣力は、親やお友達がやっていることを、そのまま真似する段階の模倣から始まります。生まれてすぐの赤ちゃんが親が舌を突き出すことを真似する「新生児模倣」に始まり、「いないいないばあ」のように目の前に見えることをそっくり真似する「即時模倣」が楽しい時期が続きます。1歳前後になると、赤ちゃんと人の間におもちゃなども物が入って「はいどうぞ」などの物のやり取りを盛んにするようになっていきます。これも大人がやっていることの模倣です。さらに目の前には無いけれども思い出して真似する「遅延模倣」見られるようになり、物を何かに見立てて「ミルクを飲ませる」「人形の赤ちゃんを抱っこする」食べ物や飲み物を「口に持っていく」仕草など、やってもらったことや大人や子どもがやっていることを真似する「見立て遊び」が盛んになります。

◆目的や意図を含めて模倣できるようになる

そのころは、なぜそれをしているのかという意図や目的も併せて真似する模倣へと発達します。なので「それをしている意味」がよく分かっていることになります。哺乳瓶を逆さまにするとお乳が出る、器に食べ物を入れると食べ物になる、ベッドに人形を寝かせてトントンする、そういったことは「何をしているのか」の意味がよく分かっています。

この時、あまりまだ言葉を喋らなくても、そのものが「ミルク」だとか「赤ちゃん」だとか「お手拭き」だとか「手はお膝」だとかの言葉を理解しています。つまりモノとそれを表す音(音声)は、しっかり聞き分けて対応しており、その物についてのイメージ(心的表象)を獲得しています。

だからこそ、見立て遊びが成立しているのです。これが「ケーキ」であることを「ケーキ」という音とセットで頭にイメージできるからこそ、日本語のケーキと聞こえれば、どの子も「あれだ」と同じものを思い浮かべることができているのです。これが言葉が表象であるという意味です。言葉の獲得の広がりと併せて、見立てる対象や世界が広がっていくのです。

◆生活の中にある意味がつながっていく育ち

さらに大きくなると、言葉が連想ゲームのように連なって、一塊のイメージを作り上げていきます。ごはん、おさら、おてて、お腹減った、おいしい・・こうした食事の時に使う言葉と動作や物の名前などが、その状況の中で繰り返されるパターンとしてセットになって記憶されていきます。繰り返されて身についたものは短期記憶から長期記憶に保存され、新しい出来事に出会うと、その意味をそれまで獲得している意味体系に付け加えていきます。

その新奇性への感度の良さは見事というほかありません。「ん?なにそれ?なんて言った?」の連続の中で子どもたちは、出来事と言葉を文脈の中で繋ぎ合わせて、大切な意味のパターンを作り上げていきます。そのパターンの連なりが大きく育っていくと、ごっこ遊び発展していきます。この力は、模倣に限らず、実にさまざまなところでパターン認識が活躍しています(たとえば、言葉の獲得、将棋のコマの動かし方、ダンスの身のこなし、クライミングの登り方・・)。

◆模倣をめぐる話も今回で最終回

この「成長展のためのミニ連載」も今日で最終回になります。特別展示のテーマ「模倣」をめぐって、いろいろな面から解説してみましたが、最後は次の言葉を紹介して、人間の不思議さを感じ取ってもらえたらと思います。それは心理学者で科学史家であるマイケル・シャーマーの言葉です。

テッドでも楽しい話をしているので、以下、暇な時にどうぞ。

「見つけずにいられないのだ。人間の脳は、自分のまわりの世界の各点を意味あるパターンに結びつけるように進化してきた。そのパターンが物事の起こるわけを説明する」(『The Believing Brain』<信じる脳>)

◆子どもは周囲のものに「意味」を見ず出さずにはおられない

第12回目のミニ連載(12日金曜日)で、子どもは無数の体験をしている中から、なぜその体験を選んで再現する(模倣する)のかについて、「記憶の3条件」から考えてみましたが、その2番目の条件「意味が理解できる」の話の補足です。

起きていてしっかり意識している時でも、私たち人間はある形に意味を見出しやすい傾向を持ちます。なぜそうなるのかは「錯覚の心理学」などの説明では、長い進化の過程で、人間の脳が生存に役立つ世界の見方を獲得しているからだと言います。生まれたばかりの赤ちゃんも、教えていないのに人の顔を好むことや、ランダムな図形なのに水平方向や垂直方向に並んでいると錯覚したりします。次の写真はシャーマーが先の動画で取り上げている「火星」の表面です。

私たちはなぜか、顔を見つけてしまいます。このようなパターン認識を、人間は学習ではなく(つまり生まれた後で学んだのではなく)、もともと持って生まれてきているらしいのです。「なぜなら、私たちは進化によって顔を認識するように方向付けられているからです」と彼は述べています。

「人間はパターンを探してしまう生き物です」でもあるようです。なるほどなあと思います。

◆子どもはアニミズムの世界にいる!

昔からよく「子どもはなんでも物を擬人化する」と言われてきました。自然界にあるもの、雲や樹木や石にも動物や顔を見つけ出し、ついでに物語も作ってしまいます。よく「子どもはアニミズムの世界で生きている」とも言われたりします。子どもにとってイメージされているものが、見立て遊びになったり、お絵かきで表現されたり、楽しい創作ストーリーになったりしていることは、ご存知の通り、しょっちゅう起きていることです。

子どもにとっての「意味の理解」には、このような想像力によるパターン認識も含まれることになります。厳密にいうと実生活の中で、実際に体験していることとは違う経験(空想による想起など)も模倣対象に含まれるのでしょう。

◆自分らしく意欲的で思いやりのある子ども、に

今回の成長展では「模倣」を切り口としましたが、この営みは学校へ就学しても同じ能力を使って自分と世界を広げていきます。当園では今の時代の大きな課題になっている「人と関わる力」の育成に力を注いでいます。

乳児の頃から人と親しみ、愛着を持って心を通わせながら、人を信頼する力を持つこと。

その揺るぎない心的基盤の上で、自分から周囲に意欲的に働きかける力(自発性)を育てること。

それが自己効力感となって自信になること、できない時は他者に依存して甘えることができること。それが自立と協力(支え合って生きること)になること。

人の気持ちがわかり通じ合うこと、お友達の嬉しい気持ちが自分も嬉しくなること、悲しい気持ちは自分も悲しくなること。

このような心の通いあいが、模倣が生み出すさまざまな行動の中に見出されます。子どもにとっての子どもの存在は、とてもかけがえのないものです。こうして子どもがちは、自分らしく、意欲的で、思いやりのある子どもになっていくことでしょう。

成長展のためのミニ連載(13)模倣と知性

2021/02/13

子どもの成長には遊びが不可欠ですが、その遊びの特性の中心に「模倣」があるということを、このミニ連載ではお伝えしてきました。その模倣の中でも、物を何かに見立てる「見立て遊び」や、自分が何かになってみる「ふり遊び」あるいは、複数の子どもたちが役割を担いあって実生活やフィクションの世界を作り上げる「ごっこ遊び」の意味合いを説明してきました。

◆子ども同士の関わりから生まれる模倣

いずれの遊びでも、当園の場合は、子ども同士の関係の中で、それらが生じていることに注目しましょう。子どもの側に心を許しあう友達の存在があり、その存在を介して「真似っこ」や「やってみたい」が生まれています。満2歳になった頃から「ごっこ遊び」が成立している姿は、保育学の記述よりも、半年から1年ほど早い子どもの姿になります。大抵は満3歳以上の子どもの遊びとして「ごっこ遊び」が登場することになっているからです。

◆1歳児クラスで始まる「ごっこ遊び」

「ごっこ遊び」は英語でいうと「ソーシャル・プレイ」です。社会的な遊びというニュアンスが入ります。社会性の経験、つまり子ども同士の関わりの経験は、満3歳からで良いという世間の常識は、世界的な乳幼児研究ではすでに否定されていて、保育所保育指針でも乳児つまり0歳の赤ちゃんの頃から、人との「気持ちの通じ合い」が重視されるようになっています。

ただ、そこで想定されている「気持ちの通じ合い」は、親や保育者など大人と赤ちゃんとの間のもので、当園のように「赤ちゃん同士や0〜1歳児クラスの中での子ども同士」などを想定していません。当園の保育は、人類の進化心理学や伝統的社会の子育てなどから分かってきている最新の学際的な知見を踏まえて、「赤ちゃんの成長には、子ども同士の関わりの中で育まれるもの」を大切にしてきました。成長展の特別展示では、その様子を写真や動画でご覧いただきます。

◆保育の質は正統な文化的実践への参加

ところで、保育の質とは何かというと、それは子どもの経験の質に他なりません。では、その経験の質が良いとか高いというのは、どういうことなのでしょうか。質が良いというのは量的に何かが多いとか高いということではなく、成長の意味の質を問うことになります。個人の育ちに還元してしまうものではなくて、一人ひとりの育ちを大切にすると同時に、それが生じる関わりや環境も大切にします。しかも模倣してもらいたい文化や歴史の正統性を吟味しながら、その文化的実践に参加していく営みを生み出すことが、保育の質になります。

◆人間は8つの知性を持つ多重知能の持ち主かも

そうなると、子どもが行っている生活や遊びは、どんな正統的な文化的実践になっているのかを理解することが大切になります。例えば、模倣遊びをみてみると、その子が何に興味があるのかがわかります。さらにその内容から、どんな分野の力が育っているかも、見当が付きます。再現する内容や世界は、その子の脳内で意味のネットワークが構築されたり、更新されたりしているのですが、脳科学の知見によれば、脳の部位と知性との間に、ある程度の相関が見られるといいます。その学説でよく取り上げられるものに、脳損傷症状の研究からM・ガードナーが見出したマルチプル・インテリジェンス(M I:多重知性理論)があります。

彼は「人間は8つの才能分野を独立して持っていて、どこが得意かは個人差だ」といいます。以下に8つを箇条書きしておきましょう。単に経験的に整理したものではなく、医学的にも脳科学的にも根拠を示しています。その根拠の中に脳損傷との相関症状があり、他の動物にも類似の能力が見られ、心理学のデータとも矛盾しないことなどが述べられています。得に私が感心したのは、この8つが全て表象体系に落とし込めることです。

①言語性知能 ②音楽的知能 ③論理・数学的知能 ④空間性知能 ⑤身体・運動覚知能 ⑥対人関係知能 ⑦内省的知能 ⑧博物学者的知能

このように人間の能力を見てみると、いわゆる「頭のよさ」は、ごく限られた才能でしかありません。多重知性論から見ると、学校の「学力」はとても狭いものになります。なぜなら研究者が行う学問を「親学問」だとすると、その研究遂行に必要な知識や技能について、その内容を系統的に整理して、難易度を落として学校種ごとに教科にしているのが学校の「学力」だからです。

◆子どもが持って生まれた力が遊びに躍動

確かに、私たち保育者からしても、対人援助職である福祉現場では、学校の勉強ができることよりも、⑥の対人関係知能が豊かで情操的な軽やかさや大らかさといった「知性」の方が大切です。世間ではそうした知性を人間性と大括りにしてしまいがちですが、人類の進化の過程で得た「人間らしさ」は、ガードナーがいうように、広く奥深いものなのでしょう。

乳幼児の遊びを見ていると、人間が持って生まれてきたものの豊かさを感じざるを得ません。やりたがる意欲の強さ、物事への好奇心の旺盛さ、意味ある体験の取り込む速さ、いずれも大人はかないません。そんな生命力に満ち溢れた子どもだちの姿を成長展では確かめてみてください。

 

成長展のためのミニ連載(12)なぜそれを模倣対象に選ぶのか

2021/02/12

子どもたちは遊び(模倣遊び)によって自分づくりと世界を探検しているのだとしたら、どうしてその経験を選んで、再現しようとするのでしょうか?その謎を知りたくなりませんか?

◆どうしてその体験を選んで模倣するのか

子どもたちは毎日の生活の中で、無数の経験をしているはずです。その無数の経験の中から、どうして「その」経験を取り出して、再び目の前に露わにして味わおうとしているのでしょうか。好きだから。楽しかったから。面白かったから。よく分かったから。・・いろんな「理由」が思いつきます。ここを改めて考えてみたいと思います。

どうして、Rちゃんは「その」お友達の隣に腰掛けたいと感じるのか(今日12日のちっちのブログ)、どうして坪井先生のギターの真似なのか、どうしてママゴトなのか、どうして電車ごっこなのか、どうして秋葉原駅周辺のジオラマづくりなのか、どうして広州タワーなのか??? どうして、らんらんの女の子たちは半袖がいいと「みんなと一緒」にこだわったのでしょうか(昨日11日のわらすのブログ)。

これまで私は「子どもが繰り返すことには発達上の意味がある」「その意味が何かは、今は分からなくてもきっと意味があるから大事にしたい」と、それこそ「繰り返し」この日記で述べてきました。

 

では、その「意味がある」という意味には、「どんな」意味があるというのでしょうか?ミニ連載の残りでは、最後にこのことを探ってみたいと思います。

◆模倣を支えている記憶の仕組み

子どもの模倣に関係する様々な行動は、それが模倣であるかぎり、一旦体験したことをどこかで記憶しており、それを想起して(思い出して意識化する)、言葉や絵や造形や振る舞い(ふり遊び、役割模倣)などで再現しているということでした。

そこで「どうしてだろう?」と不思議なのは、その子どもが「どうしてそれを選んだのか?」「どうしてそれを選んで再現しているのか?」ということです。もっと他のものでもいいだろうに。他の子どもは別のことに興味があるみたいなのに、どうして「それ」なのか?というあたりの疑問です。

今日はそこを深掘りするために、ある学説を紹介します。それは「記憶の3条件」です。学びを成り立たせているのは記憶なのですが、頭に残らない経験は模倣されようがありません。そこで、まず記憶とはどんなことだったのかみてみましょう。毎日の経験がその場限りで消えてしまわないのは、次のような条件の時だそうです。

◆記憶の3条件①意識がしっかりしていること

ごっこ遊びなどの模倣は再現ですから、その子どもの脳の中に記憶されていることは間違いありません。人は毎日生活していて、ぼんやりと過ごしていることは記憶に残りません。それは体験していないこととほぼ同じです。すぐ目の前を通ったのに、目をつぶっていたら気づきません。ですから第一の条件は「意識水準」です。脳は意識がぼんやりしている時の経験を残してくれません。意識がしっかりして、自分で注意を制御できる状態でなければ、記憶に残る体験になりません。

◆記憶の3条件②意味が理解できること

数ある体験の中から模倣するに値する体験を子どもは再現します。そこには、とても重要な、その子なりの「フィルター」が働いているのです。同じ活動をしていても、その子にとって「意味あること」でなければ、その子の心の中に届かないのです。意味を成り立たせるには、すでに経験したことから作り上げている「心の枠組み(心的枠組み)」のどこかに、パズルのようにパチっと嵌め込まれなければ受け取れないものなのです。知らない外国語を聞かされても、それらしきものが聞こえていることは知覚できても、意味はわかりません。それと同じで色々な体験も理解できないと記憶には残りようがありません。

好きな子の隣にいたい、好きな先生のそばにいたい。そうした愛着は、繰り返し触れ合ってきた人間関係の積み重ねによってできます。そのRちゃんにとっての「そのお友達やその先生」に対する「心理的パターン」は、Rちゃんだけが保持している記憶であり心的表象です。とても個別的なものです。同様に子どもたちが見せてくれる模倣遊びは、その子にとっての「意味の記憶」が繋がりあって出来上がっていくジグソーハズルのようなものです。彼は今「ここに当てはめたいピース」を探しているのであって、それ以外のピースは「今はいらない」のです。幼児の集まりでも、お友達のお話に興味がなければ集中することができません。興味がなくても集中するふりを無理やりさせると、ますます集中しなくなる恐れがあります。

◆記憶の3条件③「感情」が働いて初めて記憶される

好きなことはよく覚えているという、あれです。これはわかりやすい話でしょう。興味あることは知らず知らずのうちに覚えています。子どもは珍しいもの、新奇なものへの好奇心が旺盛です。新し物好きです。感情に基づいた記憶は忘れにくい、ということが言えます。楽しかったことや、とても辛かったことは記憶に残りやすく、心動かされていないようなルーティンの瑣末な出来事は、忘れてしまいます。

このような3つの条件がありそうなことは、脳障害の研究などからも明らかになっているようで、まだまだ諸説がありますが、経験が記憶される仕組みについて、主に2つの神経回路が見出されているそうです。冒頭の写真はパーペッツ回路と基底・外側回路の説明図です(『学び』の認知科学事典)。

◆模倣対象になぜ、その体験を選ぶのか

このような記憶の仕組みを理解すると、子どもが模倣遊びなどに、その体験を選んでいるのは、しっかりと意識している、起きている時間帯に、それ好き! 面白い! 楽しい! どうしてだろう? などの感情がまず先に豊かに動き、その子にとって意味のある、つまり理解することで世界が広がっていくような経験が「選ばれている」ことになります。既に積み重ねられている経験の延長線上に、ジグソーパズルでいう「ここをはめたい」と思っているそのパーツの部分に興味があって、そのフィルターが働いているように見えます。その体験が記憶され、再現されることでさらに強化されます。見立て遊びやごっこ遊びは、記憶を強化していることになります。人にお話をすることも同じです。その出来事をクリアに、鮮明に記憶していくことにつながっています。

ちなみに、人に述べることができる記憶という意味で、それを陳述性記憶、あるいは宣言的記憶と言われています。楽しかった体験を他人にお話をするというのは、言語性の能力と共に対人関係の才能や内省的な力などを伸ばすことになりますし、ブロックを作り上げているときは幾何学的、論理的、博物学的才能も伸ばしています。

そうすると、大人が子どもに経験させたいことを教えて覚えさせるような学びではなく、やはりこれまで実践してきたように、子どもが自らが興味あることを選んで学び始めるような生活を用意することが肝心、ということになりそうです。それが豊かにあれば、子どもの模倣活動も豊かになっていくはずです。

 

成長展のためのミニ連載(11)自己と世界の探索

2021/02/11

昔、美術館でゴジラが登場する模型のジオラマを見たことがあります。実物の何十分の1かでできた都市の風景をじっと眺めていると、あたかもそこに自分がいて、ビルの間から巨大なゴジラが歩いていく「映画」のシーンを思い浮かべていました。円谷英二は特撮で架空の世界を造形し、怪獣と巨大ヒーローが戦うウルトラマンシリーズを誕生させます。壮大な大人のごっこ遊びが、一大産業となり日本を代表する子ども向け文化にもなりました。

須田町ニ丁目の斎藤町会長はアップル社の社長で、柳森神社の前にそびえ立つ11階建てのクリスタルビルのオーナーです。会長に頼んで登らせてもらった11階からの見晴らしは、子どもたちに大きなインパクトを与えました。

子どもたちは秋葉原駅周辺を展望した後で、どんな模倣遊びを展開したか、それはすでに昨年お伝えしましたが、成長展ではその様子を動画でご紹介します。

子どもたちが作り上げていった秋葉原駅周辺のジオラマ作りを見ていると、単純に模倣とか、再現といった言葉では言い尽くせない、強烈なこだわり方、人間特有の世界への接近の仕方、あるいは世界への尋ね方といったものを感じます。この世界への身の寄せ方のようなものは、芸術家たちが昔から、神話や信仰や歴史を絵にしてきた絵画史の営みの中にあるものと同じ〈子どもならではのミメーシス〉のように見えます。

子どもたちは、今持っている身体的な力を使って、いろいろな素材に手を加えながら、イメージしたものに、どうやったら近づくか、試行錯誤しながら駅や線路やビルを作り、並べ、つないで形にしています。紙や箱や段ボールを加工して、目指す形や色や模様に変化させていく営みは、造形的な想像力を使いながら、自分の見てきた世界、自分が知っている世界を再発見していることでしょう。

 

 

成長展のためのミニ連載(10)イメージの共有

2021/02/10

体験がよく再現されるためには、本人だけがその「つもり」になっていれば済みます。面白そう、楽しそうと思う事柄を、自分だけで再現して楽しめば済みます。写真はぐんぐんのギター演奏です。

ところが、保育園の子どもたちの体験は、一人だけのものは少なくて、大抵はどの子とも共有する体験が多いようです。というのは、同じような場面を何人もの子どもたちが体験しているからで、複数のお友達が一緒になって「ごっこ遊び」を楽しんでいます。下の写真はぐんぐんの誕生会ごっこです。

複数の子どもたちによって、ごっこ遊びが成立しているとき、体験したイメージを共有できていなければなりません。この「イメージの共有」は、ごっこ遊びに欠かせないものになります。その共有のプロセスの違いに、成長の姿を見つけることができます。

満1歳ぐらいまでは、本人だけがあることを真似して遊ぶことが多いのですが、それを過ぎて「指さし」を始める頃から、他人とのイメージの共有が始まります。「ほら、あれ見て」と自分が関心を持った対象を第三者に伝えようとします。これを「共同注意」と言います。自分の注意の対象に、相手も注意を向けるように促しています。注意と注意を結合させようとしていることから「ジョイント・アテンション」が起きていることになります。下の写真はちっちの「あっちいた!」です。

指さしがあるかないかは、言葉の獲得ができるかどうかと関係します。見た犬を他者に伝えるために「指さす」ことと、それを「わんわん」と呼ぶことは、同じ仕組みだからです。犬のイメージを他者に伝える「指さし」は、「ほら、見て、あのわんわんを」というコミュニケーションだからです。この営みの延長にイメージの共有に伴う「ごっこ遊び」が成立します。

ある子どもがやっている見立て遊びを、他の子どもが見て「それ、僕も(私も)やってみたい」と思い立つこともありますが、やっていることを言葉が指し示すことで共有しやすくなっていくのです。意図と意図を結合したいという共感力が育っていくと、言葉という表象の獲得も進んでいきます。言葉が豊かになることと歩調を合わせるように、イメージの共有も広がっていくのです。下の写真は「今日のおやつはケーキ。みんなでお祝いしよう」と言う、ぐんぐんさんの「誕生会ごっこ」。

たとえば、にこにこ組の成長展の動画には「バスごっこ」が出てきます。そのとき子どもが座ってバスに乗っていることを「明示」しているのは、バスの運転席にあるハンドルです。これを持って、運転している動きを真似することで、他の子供たちも加わり、並んで運転しています。

面白いのは、一緒に並んでいても、どの子どもも「運転手」です。運転手とお客さんがいるのではなく、まだ役割分担のごっこ遊びになっていません。

しかし「ピクニックごっこ」になると、ピクニックという同じ場面を共有しながら、その中でに「出前屋さん」が現れるなど、思い思いの個人的なイメージが結合しています。

それに引き換え、わいらんすいの動画を見てみてください。協同遊びに役割の演じ合いが見られる様になります。たとえば、すいすいの子とらんらんの子による「美容院ごっこ」では、お客さんと美容師の役割が明確になっています。

あるいはお楽しみ会の劇遊びを思い起こしていただきたいのです。イメージの共有は、そのイメージの表象である「言葉」が豊かになることで、またそのコミュニケーションが複雑に共有しあっていくことで、豊かになっていくことがわかります。イメージの共有の仕方にも発達の違いが見られるのです。

 

成長展のためのミニ連載(9)生活と遊びの関係

2021/02/09

子どもに「遊んでいいよ」というと、広い空間から走り出したり(動き)、こっちにおいでと鬼ごっこを始めたり(競争)します。手にしているスプーンを楽器の様にテーブルに打ち鳴らしたり(動き)、投げたり、転がしたり、予想できないような動きの行方や結果を楽しみにしたりします(偶然)。そしてもう1つ、生活から一気に遊びに転換させるものに「模倣」があります。

今日9日のちっちのブログをご覧いただくとわかる様に、生活が「遊び」になるとき「模倣」が大きな役割をになってることが改めてわかります。子どもが遊び始めるときに、何かの物を何かに見立てることをし出します。今日のブログでは、食事をし始めるときに、テーブルに座っていたのは人形さんで、しかも自分のエプロンをつけていました。人形を自分に見立てて、あるいは人形を自分の分身、アバターになってもらい「エプロンをつけてあげる相手」を作り上げていたように見えます。

洗濯物を干すという生活の一シーンを真似て、パーテーションで靴下を干している子どもはそれをやっているときに「遊んでいる」という意識はないかもしれません。子どもの行う行動を、ここまでが生活で、ここからが遊び、というようにわけて見えるのは、大人が持っている概念に当てはめてみているからでしょう。いずれにしても、どんな見方をしようと、動かし難い事実は、実際に起きていることや起きたことを何かの代替物を用いて「再現」しているということです。

成長展で上映するぐんぐん組の動画の中には、料理を作って食べたり、食べ物をあ〜ん、と食べさせてあげたり、赤ちゃんにミルクを飲ませてあげたり、おむつを替えてあげたり、さまざまな生活シーンの模倣が登場します。

 

お誕生会も開かれたり、そこで上手に歌を歌ったり、散歩先でもお店やさんごっこが盛り上がりしています。あらゆるものがごっこ遊びになっていることがよくわかります。

そして、子どもたちは別に誰かに見てもらいたくて表現しているのではありません。夢中になって遊んでいるとき、それは子どもが入り込んでいる世界が繰り広げられていき、その世界に他の子が馴染みのある時、一緒に参加して増えていきます。

1歳児クラスでこのような協同的な見立て遊びが成立していることは、とても素敵です。共有している同じ「体験」が、それに使われる空間やものなどの「環境」によって再現されていくとき、ごっこ遊びは豊かになっていることがよくわかります。

成長展のためのミニ連載(8)見えないものも模倣する

2021/02/08

模倣するものは、目に見えるものばかりとは限らないだろうことに、今日のにこにこ(2歳)やわらす(幼児)のブログを読んで気づきました。

にこにこ組が3階の運動ゾーンで、クライミングやスイングを楽しんでいます。憧れていた場所。やってみたかった遊び。それがついにできるようになった喜び。とても楽しそうな表情と姿ですね。遊びをルールを守ることが、安全でより楽しい活動になることを体験しています。

ルールと言う目に見えないものを守るという行為もまた、模倣する力を使っています。先生がモデルを示し、それを真似して覚えていく。見ててね、やるよ、ほらできたでしょ。このように、手本を示して、教え導くことを「教示伝達的顕示」(OMC)といいます。とっても教育的です。子どもを導くと言う意味のギリシャ語でペタゴジーという教育用語がありますが「よく見ててよ、いい?やるからね、ホラね」のようなモデル提示の仕方は、ペタゴジー文脈とでも言ってよく、みている者に有無を言わさず、同じことを模倣させる強力な力を持っています。こういう見せられ方に、人間はとても弱いんです。その通りにやらなきゃ、と言う気持ちにさせられます。

子どもたちに大事なことを真似してもらいたい時、私たち保育者や教育者はこの手を使います。一見、安全な遊具の使い方というルールを伝えているのですが、大事なのは「同じようにやる」ことです。クライミングから飛び降りる時、背後に誰もいないことを確認し両足の膝を曲げて安全に着地できるようになれば、どんな方法でも構わないのですが、3歳ぐらいの子どもたちに、意図や目的を理解させ、方法は自由に任せるのでは心配だからです。型から入ります。ここはミーミーミーと蝉になってもらいます。別にセミじゃないといけない理由はありません。でも考えずに、まずそういうもんだ、ということでやります。

ここは、ちっとも本来の学びではありませんが、安全第一なのです。横断歩道は注意して渡ろう、ではダメなのです。「はい、いいですか。はい右を見て、左を見て、はいもう一度右を見て。はい、できましたか」でないと困るのです。でも、やりすぎてはいけません。自分で考えることを放棄してしまうのですから。これは自分で物事をちゃんと考える力を奪ってしまう模倣だと、心得ておきましょう。いろいろ難しいですね。

すいすい組のブログによると、6歳にもなれば、もうこんなに頼もしくなるものかと思えます。予定通りの時間内にお手伝いを終えて「これなら御徒町公園に行けるだろう」と自己評価している年長クラスすいすいの子どもたち。何かが可能になる姿を目指して、それに近づくように努力する姿は、究極の模倣力かもしれません。既に起きていることを真似するのではなく、起きて欲しい姿を目指して真似をする。より良い姿を作り出そうとする意欲も、模倣する力の応用かもしれません。

そう考えると、スポーツ選手が自分の動きを理想的な形に導くためにシミュレーションをすることを思い出します。過去の出来事を再現するならイミテーション(模倣)ですが、まだ起きていない未来の姿を先取りして模倣することが、シミュレーションなのかもしれません。それにしても人間は、このように類似したものや相似形のものを再現させながら精神世界を広げていることがわかります。とても不思議なことだと思いませんか。

成長展のためのミニ連載(7)模倣と学びの関係

2021/02/07

保育園の1階はちっち・ぐんぐんの生活エリアですが、そこで展開されている「模倣」を見てみると、子どもにとって子どもの存在がとても大きいことがわかります。お友達が楽しそうに遊んでいると、それをじっと見てた子どもがそれを真似しようとします。

遊具で遊んだり、絵本を手にしたり、カーテンの裏に入ったり、お友達が持っているものを自分も触ってみたいと思ったり。実に様々なことを子どもたちは見たり、真似したりしながら、「そのこと」を分かち合っています。「そここと」は思ったよりも広いもので、つい大人は「ままごと」とか「お買い物」とか「食事の場面」などと、わかりやすい場面で切り取ってしまい、「〜ごっこ」と名前をつけてしまいがちです。でも模倣は実に色々なところで生じています。

お友達が興味を持って手にした物を、自分も触ってみたいと手にしようとすることも、模倣ととても近い働きのように見えます。しかも、ここで大事なことは、お友達のやっていることをじっと見ている中で、いつのまにか「自分もやってみたいなあ」という自発的に「真似してみたい」という動機が生じていることです。心を寄せているお友達がやっていることだからこそ、自分も・・・という共感的な関わりが生まれているのでしょう。真似をしたいという相手やことがあることが、ここでの真似することの前提条件になっているではないでしょうか。心の通い合い、気持ちの重なり合いを求めている時もあります。

確かに、物に興味があって、知らない相手であっても「あ、あれ欲しい」と思って取ろうすることもあります。確かに、それは模倣とはいいません。でも、同じことをしたい(つまり真似したい)という動機は同じです。

模倣は、他者がある行動をしたとき、それを観察して同じような行動ができるようになることです。心理学などの辞書には「観察」と書いていることもあるのですが、実際の子どもたちをみていると、お世話をしもらうことも立派な観察の機会になっているので、やってもらったことをやってあげるようになるのも「模倣」があるからでしょう。お手伝いをしてもらった経験のある子どもは、よくお手伝いをするようになるのは、そこの「模倣」が橋渡し役をしていると考えられます。

このように、模倣は真似ることなので、色々なことを真似してできるようになることを「真似び」と呼んでいたわけで、それが「学び」の本質になっています。ですから、学びはとても広い世界です。共感作用と模倣作用が学びを生じさせているので、そうした状況や文脈があるところには、子どもの学びが生まれています。子どものそれまでに経験したことの積み重ねの延長に、身近な人がやっていることを「面白そうだなあ」、「楽しそうだなあ」とインスパイアされて、私も、僕も・・「やってたみい」となるのです。

ところで似た言葉に「学習」がありますが、それとは全く異なります。学校教育関係者は「遊びの中の学び」を「学習と同じである」ということがありますが(無藤隆)、実は全く異なります。学習には目的があってその手段を明確にする傾向が出てしまいますし、学習の内容は教える内容と同じだとみなしがちです。

しかし子どもの学びは、前述したように、その対象も内容も対人関係の中から生じるものが多いということも、学習とは異なります。特に学校教育の学習は、その内容は系統的な知識の羅列になっているので、子どもの個々の学びの文脈を考慮しにくく、本来の「学び」から遠ざかってしまがちです。子ども(人間)が先天的に持って生まれた学びには、いまだに人間的な謎に包まれたものがあって、質的にも哲学的な意味でも異なると言っていいものなのです。

子どもから学ぶ働き方改革 成長展のためのミニ連載(6)表象欲求

2021/02/06

このミニ連載では、模倣について、多面的に眺めています。そうすることで、模倣の特徴や役割、広がりや輪郭がハッキリしてくるかもしれません。模倣を前から横から上から斜めから、いろんな角度から見てみましょう。すると、模倣はまるで百面相のように多様な表情を見せてくれます。あるいは「だまし絵」のように、なにも無いと思っていた所に模倣が隠れていたりします。

一見して模倣だと分かりやすいのは、子どもが何かになった「つもり」で遊んでいたり、物を何かをに「見立て」たりしているときでしょう。前者を「ごっこ遊び」といい、後者を「見立て遊び」と言うことが一般的ですが、成長展では、この2つの様子を各クラスごとに動画でご覧いただく予定です。

子どもが頭の中でイメージしたもの、想像しているもの、思い浮かべているのもは、外から子どもを見ている私たちには見えません。子どもの精神世界は本人でないとわかりません。しかし、子どもの言葉や表情や仕草や行動から、こんなことを感じているのかな、思っているのかな、考えているのかな、と想像することができます。そうやって、私たちは子どもとコミニケーションをとっています。

子どもがイメージしていることを、話してくれればわかりやすいかもしれませんが、子どもがイメージしているものは膨大で、常に動き、うつろい行くものでしょうから、ボキャブラリーの少ない子どもにとってはなおさら、言葉という表象だけでは表し切れないものです。それが何故だか不思議なことですが、子どもたちは、その印象深く「心動かされているもの」を再現しようとします。私は「きっともう一度味わいたがっているんだ」と理解しているのですが、これは私の仮説に過ぎません。

でも私が「これは有力な仮説じゃないか」と考えているのは、大人も同じ衝動をもち、感じたことや考えたことを表そうとしたり、人に伝えようとしたり、分かち合おうとしている事実があるからです。表象を作り、それを共有しようとする衝動は、人間特有の大きな欲求なのではないでしょうか。子どもは持って生まれたものとして、つまり教わったり学んだりしたことではない「表象欲求」とでも言ってよいものを持っているのだと思います。ちなみにルドルフ・シュタイナーは、生まれながらにその表象を持っているとはっきり言っています。

画家が絵を描きたがり、詩人が詩にするように、子どもたちは見てきた風景をそこに再現したり、物語を演じたり、好きな歌を歌ったりと、意欲的に再現を「やりたがり」ます。お話の「てぶくろ」や「おおきななぶ」や「ももたろう」や「エルマーのぼうけん」も、あんなに上演したがる、小さな俳優たちでした。大人の画家、詩人、ミュージシャン、俳優、料理人、都市設計士、運転手・・ありとあらゆる表現者たちは、優れた模倣遊びやみたて遊びのプロたちなのです。成長展でご覧いただく動画には、子どもの画家、詩人、ミュージシャン、俳優、料理人、都市設計士たちが登場します。

なんと生き生きと活動していることでしょう。私たち大人は、このような仕事の仕方をしないといけないなぁと、子どもの遊びの姿から働き方改革のヒントを得ることもできそうです。

 

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