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園長の日記

子どもと一緒に物語の世界に入り込む

2021/03/04

子どもと一緒にいて幸せを感じるときは、どんなときですか? 何か素敵なものを分かち合っていると実感できる時ではありませんか。例えば「いいなあ、こういうの」と思っていることを「ね、いいよね」と頷き合うような時。あるいは夕食の一家団欒が、共感し合ううれしさで、笑顔や笑いがこぼれ出ているような時。こんな時間は多いに越したことはありません。何をするわけでもなく、「これしなくっちゃ」とか「ああでなきゃだめだ」という意識もスッコーンと抜けていて、脅迫めいた時間から解放されている。そんな「こどもの時間」をたくさん用意してあげたいと思います。

今日4日は、久しぶりに3階で絵本を読んであげる時間がありました。取り上げたのは、「たまごやきのたまこさん」と「どろんここぶた」そして「大どろぼうホッツェンプロッツ」の続きです。毛色の違う3種類の絵本は、その面白さの種類が違うのですが、子どもたちは、変な言い方ですが、それぞれの面白さを「しっかり」キャッチできる感性をもっています。これは心に余裕がないと、楽しめないんじゃないかと思います。それぞれの「おかしみ」を、クスクス笑ったり、「え〜っ」と、なんとも言えない感嘆の声をあげたり、それぞれの登場人物の気持ちを共感しているのが、よくわかります。

絵本を楽しむというのは、1人でその世界に入り込むのもいいのですが、こうやって1つの絵本をみんなで集まって読んでもらうというのは、案外、保育園のようなゆったりとした時間の中でしか、味わえない貴重なものかもしれません。小学校には、そんなまったりとした時間はないですし、家庭にはお友達がいません。

しかも、私が好きな絵本を読んでいるので、私がお話の世界の案内役とはいえ、完全にエコ贔屓している世界です。「ほら、いいでしょう」と、個人的な思い入れ100%の読み方です。私の心の動き、感情の起伏、どういう気持ちでいるかということが、子どもたちに伝わっているはずです。

大人が絵本を読んであげるのは、やってあげる保育であり見守る保育じゃない、と勘違いしないで欲しいのです。絵本の世界は、私という環境を通して子どもの体験になっているのです。私が媒体するものが絵本の世界です。子どもが1人で自分で絵本を読んで楽しむこととの違いは、私の心の動が環境となって、それを通じて魅惑の世界へ誘っていることにあります。佐伯胖さんの「ドーナツ理論」とほぼ同じです。私が文化的実践を通して、子どもたちをその世界へ誘う橋渡し役をしているという捉え方です。

 

私は私、私は私たち(「自分らしく」の意味)

2021/03/03

何かの集団の一員であるという所属の欲求を私たちはもっています。同じものに連なっているという生の連続性やルーツを求める傾向をもっています。私は何者なのか?というアイデンティティは、自分が自分であるための証明として、何かの価値や連続するものに同化しようとします。子どもの模倣衝動もこのラインにあるような気がします。

しかし、一方で、私は私であるというときは、私は違う!と言っているのです。私はあなたじゃない。私は私が決める、決定権は私にある。それをどう考えて、どう行動するかは私が選択して決めたい。私にはそういう意思決定の自由がある。このように考えるのも、また私たちの中にあります。

自分らしく自由でいたい。しかし同じ共同体の一員でもありたい。この私は私でありながら、私は私たちでもあるということは、至るところにあります。結婚して、それまでの自分の姓でいたいのか、どちらかの同じ姓にするのかを決めるのは、個人の自由な選択になります。私が私でありながら、私たちでもあるあり方を姓名(氏名)で規定するとことに、いかにアイデンティティーが、その社会制度に縛られているかがわかります。その国の個人と国家の関係です。

同じ発想で、ジェンダーのことを考えてみましょう。自分の脳が生物学的に男性だったり女性だったりLGBTだったりすることは、生物学的な要因もあって、自分の意思、選択意識だけでは解決しません。本人さえ戸惑ってしまうこともあります。人と人との関係の中で、初めて自分のありように気づくこともあります。僕は男だと思っていたけど、違っていたことに後でわかるのです。これらの問題を考えるときに、立ち返るべき視点は「本人にとって」はどうなのか、ということが最優先されるといいのです。

そこで子どもと接するときに気をつけたいのは、ジェンダーの特性を一般化しないということです。普通は〜だとか、〜は◯◯が多い、とか量的に多いことをもって論拠としないということです。一人一人違うんだという、徹底した「自分らしく」の尊重から始めたい。したがって、当法人の保育は年齢別、性別、しょうがいで分けないことにしたのです。

心動かされる体験について

2021/03/02

見立て遊びは好きなことに限らない?そうか、痛いことや怖かったことも再現するのか、面白い!ーーー今日の1歳児ぐんぐん組のブログのことです。満2歳を過ぎている子たちが、お医者さんと患者さんという役割をもった「お医者さんごっこ」を楽しんでいる様子が報告されています。しかも注射しているところなのです。いまテレビをつけると「ワクチン接種の場面」がよく写されるので、その影響かもしれませんが、多分、自分が予防接種を受けた時の体験だと思います。痛くてきっと泣いたりしたでしょうに、それでもごっこ遊びになるんですね。そういえば、お化け屋敷なんて、怖くて悲鳴をあげたりしたのに、子どもはお化け屋敷ごっこが大好きだといことを思い出せば、そんなに不思議なことではないのかもしれませんね。

歯医者さんも、痛い思いをしたんじゃないかな、と思う方が多いと思いますが、実はうちの園医の山本歯科さんは、子どもたちに人気なのです。6月と10月ごろに年に2回の歯科健診をお願いしていますが、その時の様子を見ていると、もちろん子どもにもよると思いますが、あまり怖がりません。優しい先生なので、その雰囲気が子どもにはわかるようで、嫌がるどころか、むしろ、「あ〜ん」と自分から口を開けて診てもらう姿があります。

見立て遊びに取り入れられる場面は、子どもにとって、きっと印象深いシーンなのでしょう。昨日の0歳児ちっち組のブログでは、柳森神社での「お参り」が取り上げられていました。満1歳の子が、手を合わせてお参りする「ふり遊び」なんて、私も初めて見ました。心動かされる体験、という言い方に私たち保育者は慣れ親しんでいるのですが、深く考えると、何が心を動かしているの不思議です。「ああ、そこか!」と子どもは大人に教えてくれる印象的なシーン。数ある大人の振る舞いの中から、それを切り取ってくるセンサーは、誰に教えられたわけでもない、先天的な認知の枠組みなのでしょう。ここに人間の認知の秘密があるようです。

今日は久しぶりに、ダイニングで子どもたちと一緒に食事をしました。新型コロナウイルスの感染者数が多い時期は、事務室で昼食を摂るようにしていたのですが、3月になって、すいすい組の子たちとの残された時間を大切にしたいという思いが募ってきました。すると、すいすいの子は、昨年秋頃から読んであげてきた絵本の名前や、物語の印象深いシーンを、いくつもいくつも語り出すのです。それには驚きました、と同時にとても嬉しくなりました。このように話し出すことも、印象的なことの再現に違いないわけですが、私の方まで心が熱くなってしまいます。心を通わせるという意味は、大事なことを分かち合うこと、再確認すること、共有することなんだなあ、としみじみ思ったものです。そしてこう思うのです。「よーし、また楽しいお話をいっぱい読んであげるからね」。

『保育の起源』の書評を頼まれて

2021/02/25

日本には3つの保育団体があるのですが、その1つに「全国私立保育園連盟」という団体があります。そこが発行している月刊誌「保育通信」から、書評を頼まれました。本は藤森平司著『保育の起源 保育を巡る今日的論考』(世界文化社)です。以下のように書いて渡しました。(そういえば、千代田せいが文庫で藤森先生の本を閲覧・貸し出しができるようにしないといけないですね)

この本の著者は私の師匠です。先生は日本で「見守る保育」と呼ばれるようになった子ども主体の保育を全国に広げた保育者であり、私にとっては生き方の導師であり、保育の探求者です。まず本書の「はじめに」から、以下に少し紹介します。

「・・今日では、見守る保育として広く受け入れられている私の保育論ですが、振り返れば、私自身が人類学や脳科学、発達心理学などのさまざまな学問に触発され、それぞれの分野における優れた研究者と出会い、語り合う中で多くのものを取り込んできました。今、私が保育に関わり始めてから現在までの社会的な背景を振り返ると、『見守る保育』は何も特別なものではなく、世界各国に共通する流れの中で、必然的に構築されてきたことがわかります」

さて、この「見守る保育」は、最近では海外から「mima-approach」略して「mima」と愛称される「藤森メソッド」として世界で普及し始めています。アジアの保育を代表する乳幼児保育法として注目されているのです。その教えは多岐に渡るのですが、最も大切な教えは「保育の探求は、保育実践の中からしか生まれない」ということです。保育の<真と新>は現場にあるのです。「保育は学問ではなく保育道である」ということです。そんな、保育をめぐる考察の一部始終が一冊になったものが本書です。

23章480ページからなる大部ですが、保育の質を本気で探求したい人にとって、この考察を辿ることは、保育理念を汲み出す井戸となることでしょう。あるいは「保育の地平」全体を見渡すことにもなります。その地平は人類の進化、人類学、民俗学、脳科学、住居学、心理学からスポットライトが当たります。さらに通底している「保育の起源」を踏まえて、本書後半は保育理念を巡る議論が展開されます。そのテーマは発達、教育、乳児研究、愛着、自立、見守る保育、その意図性、異年齢保育、チーム保育、室内環境、屋外環境、見守る保育における5M、食育、リーダー論、海外の保育、家庭での育児と、16にのぼります。

また、アフォリズム(警句)のような言葉が興味の扉を開かせてくれます。例えば・・。

「人類の始まりという太古の話が、新しい保育のテーマにつながりました。乳児保育の大切さは、人類の原始にルーツを持っていたのです」(第1章人類の進化)だとか、「愛着について新しい考えを持ちました。愛着とは自己防衛のために自ら築くものであり、決して大人から与えられるものではない」(第10章乳児研究)などという言葉に出合えるのです。

この本は、辞書のようにどこから読んでも(引いても)いいのですが、知らないうちに、保育の質を思考する面白さという渦の中へ引き込まれますからご注意ください。この本の隠れたサブタイトルは「保育理念を構築するための思索ガイドブック」かもしれません。園長なら必携?かもしれませんね。

協力ゲームについて

2021/02/20

保育園が子どもにとっての生活の場所で、家庭も同じ子どもにとっての生活の場所であるとき、その両方の生活環境の同異に敏感なのは、自分の子どもを保育園に預けている保育士かもしれないと、気づきました。先日、その先生と保育園にある遊具を家庭にも紹介したいというテーマを語り合いました。19日の「わらすのブログ」をご覧ください。

◆園の遊具と家庭の遊具の違い

保育園にある遊具は、確かに家庭にはあまりないかもしれません。それはなぜかというと、家庭向けは一人遊びの玩具が主流なのに対して、園では複数で遊ぶことを想定したものが多いという傾向があるからかもしれません。

たとえば、東京おもちゃ美術館の館長の多田千尋さんとは知り合いなので、前の保育園に園内研修などで話をしてもらったりしたことがりますが、昔から彼とよく語り合ったことは「グッドトイ、つまり良いおもちゃというのは、一人の子どもにとって、という暗黙の前提があるよね」ということでした。彼の父親の信作さんは世界各地のおもちゃを収集して、世界中の良いおもちゃの種類と歴史にとても詳しい方ですが、彼はそこからおもちゃの美術館が生まれ、遊びとアートをを子どもから高齢者まで、また家庭から団体まで多方面に発展させる活動に邁進されています。日本で初めて「木育」ということを提案したのも彼です。

保育園の遊具は、一人遊びから集団遊びまで、赤ちゃんから就学前まで、遊具を含めた素材や物(廃材や水や土など)など幅広く関わる対象を捉えていることが「おもちゃ」とは大きく異なります。子どもが必要とする遊びにとっての「もの」は遊具だけとは限らないからです。

◆子どもの協同性を育てるボードゲーム

しかも当園のボードゲーム類は、協力ゲームと言って、何人かで遊ぶのは普通のゲームと同じなのですが、できるだけ「誰かが勝って終わり」に「ならない」ようなものを増やしています。何人かでうまく協力した方が勝ちとか、勝ち負けがなくて何かが出来上がって終わり、とか、協力し合う工夫の仕方が多様であるなど、複数の子どもたちが協同性を発揮するようなものを意識して導入しているのです。

そんな協力ゲームは、日本にはあまりなくて、国や文化が異なる子どもたちが一緒に生活していることが多いEU各国、特にドイツやフランスの遊具には、コーヒージョンと言って、人と人と結びつけるという機能を大切にした遊びが多く取り入れられています。意識して人と人をくっつけることを乳幼児の頃から保育実践として行っているのです。移民が多い国は、州政府がそういう政策に力を入れています。日本も単一民族ではないのに、そういう幻想が強いので、何もしなくても一致団結できると思い込んでいる節があるのですが、実は社会学の研究では、日本は他者を信頼する力が弱いと言われているのです。エコ贔屓はよくするのですが、外部とみなすと非常に冷たい国民性があります。

日本には絆という言葉や「結ぶ」という言葉がありますが、それが人間としての学びや経済活動の中で、他者との関係をしっかりと作り上げる人間力として、しっくりと使われる機会が減っているような気がしてなりません。放っておくと、色々な競争に追い立てられ個人や家族が分断されていることに気づかずに、孤立している人が増えているように思います。それはコロナ危機で露わになっていて、こんな時に苦しい立場になっているのは、日常的な協力や支え合いの生活から孤立されている方たちです。

子どもの頃から、そもそも人間が持って生まれてきた協力する力や環境を理解することは、脳に初期設定されているものです。それがデフォルトですから、他者のお手伝いを率先してやりたがるのは人類の特徴です。エプロンをつけたがり、お手伝い保育をやりたがり、ひな壇飾りを手伝いたがるのは、学習ではありません。ただし、ここが肝心なのですが、小さいうちからそれを「発現させる」ような環境、つまり人的環境がなければ、育たないということです。

異なる他者が集う場所に協力ゲームがあるといいのです。ミュンヘンには街中にボードゲームカフェがありました。神田でも似たような店を見かけましたが、コロナでその後どうなっているでしょうか。

意欲と思いやり

2021/02/19

2歳4ヶ月の子がお友だちに何かをやってあげたいと思った時、やり始める前にその相手に「自分でやりたい?」と尋ねることができるーー。今日19日の「ちっち・ぐんぐん」のブログを読んで、次の2つの意味で私は大変嬉しくなりました。1つは子どもの育ちが嬉しいこと。もう1つは、その姿に、先生たちが感激していることです。この子の姿に当園の子ども像が実現しているのですが、お分かりでしょうか?

まず、最初にUさんが「やってあげたい」という姿にUさん「らしさ」を感じます。とてもお世話が好きな子です。そこには、お友だちにステイやエプロンをつけてあげたい!という強い「意欲」を感じます。そして、ここからが凄いのですが、それをそのままやってあげてしまうと、これまでの経験の中で、場合によっては相手に嫌がられたり、嫌われたりすることもあったのかもしれません。その経験からなのかどうかわかりませんが、いずれにしても「待てよ、自分でやりたいかな?」と、相手の気持ちを確かめようとしています。

これは自分の気持ちと同じ気持ちを、相手も持っているのかもしれないという想像力の育ちがあります。これは世間では「思いやり」と呼ぶ力と同じです。相手の思いを想像する力です。相手の気持ちを察する力、共感する力です。Uさんらしく、意欲的で、思いやりのある姿です。これはまさしく当園が目指している育ちの姿、つまり保育目標である「自分らしく、意欲的で思いやりのある子ども」そのものではありませんか。この育ちが見られることが嬉しいですし、この姿に感激している先生がいることに、さらに嬉しいのです。

この姿はUさんに限りません。どの子もその子らしく、意欲と思いやりが育っています。実はこの2つの要素は、思春期になった頃に花咲く根っこです。この発達課題がしっかりと身につくとき、同時に自己肯定感も培われています。これは人生を力強くスタートさせるエンジンを手にしたと言っていいのです。この2つは昔、平井信義さんが大切にしていたものと同じです。

さらに私にとって、格別に嬉しいのは、次のことです。

「思いやりは、道徳心ではありません。躾のように外から形づけられるものでもありません。あくまでも心を通わせ合っているお友達との関係の中から、自ずと芽生えてくるように育つものではないでしょうか」

この育ちの真実を、このエピソードは明かしているように思えるのです。

 

 

「入園説明会」開かれる

2021/02/17

今日17日(水)は午前中に「入園説明会」がありました。来年度令和3年度も定員は変わりません。51名です。新しく0歳児クラスに6名、1歳児クラスに1名、2歳児クラスに2名が入りました。3歳児クラスは千代田区によると2時募集で決まるそうです。新しく入園される方のためにも、保育園の考え方やルールなどもお伝えしていきます。すでにご存知の方は繰り返しの話になってしまいますが、再確認の意味でもお読みいただくと嬉しいです。

◆集団生活のメリット

本日、新しく入る保護者の皆さんに理解を「お願い」したことがあります。それは「園生活」が集団の場所であるということです。すでに入園されている皆さんは、何度もお伝えしてきた「アロペアレンティング」のことはご理解いただいていると思いますが、子どもたちは親だけでは育ちません。アロは否定形の接頭辞prefixで、親の子育てを意味するペアレンティングの前についているので、「子育ては親による子育てだけではない」という意味になります。子育ては親御さんだけではなく、私たち保育園の職員や、園にいる子どもたちと一緒に作り上げていきたいと考えています。

実は、このことは学術的にもヒトの子育ての特徴として理解が広がりつつあります。日本乳幼児医学・心理学会でも、理事長の根ケ山光一・早稲田大学教授が次のように述べています。

「親以外の人たちによる子どもの育ちへの関わりはアロペアレンティング(アロケア)システムとして、ヒトの子育ての大きな特徴となっています。このことは、私たち人間の子育てが母子のみで完結しているのではなく、そういった豊かな社会文化的システムのバックアップ抜きには語りえないことを教えてくれています」

https://www.jampsi.org/message/

子どもが子「ども」と複数形で表されているように、子は人間と人間の間で育つものです。特に保育園では、乳児の頃からその子ども同士の関わりがあるので、私たち人間のDNAに刻み込まれている発達が発現しやすい「人的環境」になっていると言えるのです。

◆集団であることのリスク

それから理解をお願いしたもう1つは、集団ならではのリスクです。メリットと同時にリスクであるのは、感染症などがうつりやすい場所だということです。お子さんは、元気な状態で保育園にお預けください、というお願いです。発熱、咳、鼻水、嘔吐・下痢、発疹などの症状が現れたら、それは感染症である可能性があり、それだけに医師の診断を仰いてほしいということです。

たとえば、冬はウイルス性の胃腸炎が流行ります。子どもは嘔吐するとケロリと元気になったように見えるのですが、実はそれは感染症の初期症状であって「病児」なのです。というより、まだこれから病気になっていく途中です。症状は治ったように見えても、ウイルスを排泄する状態であり、まだ「病後児」でさえありません。

そこで「ウイルス性胃腸炎」に罹患している状態から「治っている」ことを医師に証明してもらう「登園許可書」の提出か、医師が治ったかどうかをみる再受診が必要ないという場合だったら「登園届」を提出していただきます。また、もし受診しないときは、嘔吐症状がなくなってから2日間はお休みいただくというルールもお願いしていく予定です。

◆成長展は今日から明日まで「ちっち・ぐんぐん」

今週から始まった成長展は、今日から乳児です。0歳のちっち組と1歳のぐんぐん組です。

小さいうちから豊かな心の動きが、画用紙に投影されている絵やぬりえやシルエット。

それがまだできない0歳のちっちさんだけは、先生が作った「成長のアルバム」があり、この1年の保育園で見せてくれた乳児の姿を、春夏秋冬のフォーシーズンに分けて写真のコラージュにしてあります。乳児の一年の大きな成長をじっくりとご覧いただけます。

 

 

 

すいすいタイムで感じた成長

2021/02/16

今日は久しぶりにすいすいの子だちに絵本を読みました。年長組すいすい組はいま、春からの小学校生活に慣れるための準備活動を行っています。大袈裟に言えば就学のための「アプローチカリキュラム」です。プロ野球に例えて砕けていうと、小学生になるための「春季キャンプ」に入っています。

どんなことをしているのか、というと、小学校生活のリズムに慣れるために、小一時間ごとに活動に区切りをつけたり、次の小一時間のために誰に言われなくても自分でトイレを済ませるようにしたり、5時間目を想定してお昼寝の時間に活動をしたりしています。

さらに小学校ではクラス担任以外に音楽や美術など「専科」の先生が授業をもったりします。ですから午後の5時間目に「すいすいタイム」を設けて、年長の担任以外の先生が、色々な「授業」をしています。今日は園長の専科の番だったので、絵本の読み聞かせと実験をしました。

絵本は小学生向けの名作『大どろぼうホッツェンプロッツ』。お話は単純なのですが、ちょっと聞きなれない言葉が随所に出るので、「ちょっと難しくても楽しい」という体験を味わってもらいたいという趣旨です。パソコンにPDFで取り込んだ絵本をスクリーンに大きく映し出して、ポインターで文字を辿るように読んであげます。今、どの文字をどのように読んでいるのかもわかるような読み聞かせ方をやってみました。これだと挿絵を「見せて、見せて」の争奪戦が起きません。絵本が大きなスクリーンに紙芝居のように映し出され、いかにも小学校のICTを使った授業のような雰囲気です。

30分ぐらいすると疲れてきたので、簡単な「実験」をして気分転換を図りました。地面に伏せた紙コップの上に立ってみます。そっと乗ると、紙コップは潰れずに立つことができます。紙コップの淵に偏った力を入れると、グシャっと潰れます。それを確かめた上で「じゃあ、9人が全員乗れるためには、紙コップをいくつ、どう並べたらいいかな」というテーマを探究してみました。

お昼寝マットを載せる。にこにこのクライミングのマットを載せる、などのアイデアがでてきたのは面白い展開でした。こままわしの台に乗ることになったら、「小林先生が作ってくれたんだから、乗って壊れるかもしれないからダメだよ」と嬉しい反対論も出たりして、こままわしの台への愛情も感じた瞬間でした。

最後の残り時間に何をするかという話になった時「レゴやりたい」「RaQがいい」と言った声が出ると「そんなのいつだってできるじゃん。園長先生がやってくれる時間はそんなにないんだから、絵本の続きがいい」という意見も出たり。なんとも頼もしい年長さんになってきた気がしたのでした・・。

成長展のためのミニ連載(14)最終回 意味を求めて

2021/02/14

明日15日(月)から成長展が始まります。園全体の行事としては、これが5大行事の最後の行事になります。春の親子遠足(コロナで実施できず)、夏の納涼会、秋の親子運動遊びの会、冬のお楽しみ会、そして年度末の締めくくりとなる成長展です。この一年間の子どもの一人ひとりの成長、育ち、発達を「教育の五領域」の観点から見てもらうのと、今年は特別展示として「模倣」をテーマに取り上げて、その年齢ごとにどのように発達していくのかについても動画で見てもらいます。親御さんと私たち保育者と一緒に、子どもたちの育ちをじっくりと味わい、賞賛し合いましょう。

◆模倣力の発達の大まかな筋道は

子どもの模倣力は、親やお友達がやっていることを、そのまま真似する段階の模倣から始まります。生まれてすぐの赤ちゃんが親が舌を突き出すことを真似する「新生児模倣」に始まり、「いないいないばあ」のように目の前に見えることをそっくり真似する「即時模倣」が楽しい時期が続きます。1歳前後になると、赤ちゃんと人の間におもちゃなども物が入って「はいどうぞ」などの物のやり取りを盛んにするようになっていきます。これも大人がやっていることの模倣です。さらに目の前には無いけれども思い出して真似する「遅延模倣」見られるようになり、物を何かに見立てて「ミルクを飲ませる」「人形の赤ちゃんを抱っこする」食べ物や飲み物を「口に持っていく」仕草など、やってもらったことや大人や子どもがやっていることを真似する「見立て遊び」が盛んになります。

◆目的や意図を含めて模倣できるようになる

そのころは、なぜそれをしているのかという意図や目的も併せて真似する模倣へと発達します。なので「それをしている意味」がよく分かっていることになります。哺乳瓶を逆さまにするとお乳が出る、器に食べ物を入れると食べ物になる、ベッドに人形を寝かせてトントンする、そういったことは「何をしているのか」の意味がよく分かっています。

この時、あまりまだ言葉を喋らなくても、そのものが「ミルク」だとか「赤ちゃん」だとか「お手拭き」だとか「手はお膝」だとかの言葉を理解しています。つまりモノとそれを表す音(音声)は、しっかり聞き分けて対応しており、その物についてのイメージ(心的表象)を獲得しています。

だからこそ、見立て遊びが成立しているのです。これが「ケーキ」であることを「ケーキ」という音とセットで頭にイメージできるからこそ、日本語のケーキと聞こえれば、どの子も「あれだ」と同じものを思い浮かべることができているのです。これが言葉が表象であるという意味です。言葉の獲得の広がりと併せて、見立てる対象や世界が広がっていくのです。

◆生活の中にある意味がつながっていく育ち

さらに大きくなると、言葉が連想ゲームのように連なって、一塊のイメージを作り上げていきます。ごはん、おさら、おてて、お腹減った、おいしい・・こうした食事の時に使う言葉と動作や物の名前などが、その状況の中で繰り返されるパターンとしてセットになって記憶されていきます。繰り返されて身についたものは短期記憶から長期記憶に保存され、新しい出来事に出会うと、その意味をそれまで獲得している意味体系に付け加えていきます。

その新奇性への感度の良さは見事というほかありません。「ん?なにそれ?なんて言った?」の連続の中で子どもたちは、出来事と言葉を文脈の中で繋ぎ合わせて、大切な意味のパターンを作り上げていきます。そのパターンの連なりが大きく育っていくと、ごっこ遊び発展していきます。この力は、模倣に限らず、実にさまざまなところでパターン認識が活躍しています(たとえば、言葉の獲得、将棋のコマの動かし方、ダンスの身のこなし、クライミングの登り方・・)。

◆模倣をめぐる話も今回で最終回

この「成長展のためのミニ連載」も今日で最終回になります。特別展示のテーマ「模倣」をめぐって、いろいろな面から解説してみましたが、最後は次の言葉を紹介して、人間の不思議さを感じ取ってもらえたらと思います。それは心理学者で科学史家であるマイケル・シャーマーの言葉です。

テッドでも楽しい話をしているので、以下、暇な時にどうぞ。

「見つけずにいられないのだ。人間の脳は、自分のまわりの世界の各点を意味あるパターンに結びつけるように進化してきた。そのパターンが物事の起こるわけを説明する」(『The Believing Brain』<信じる脳>)

◆子どもは周囲のものに「意味」を見ず出さずにはおられない

第12回目のミニ連載(12日金曜日)で、子どもは無数の体験をしている中から、なぜその体験を選んで再現する(模倣する)のかについて、「記憶の3条件」から考えてみましたが、その2番目の条件「意味が理解できる」の話の補足です。

起きていてしっかり意識している時でも、私たち人間はある形に意味を見出しやすい傾向を持ちます。なぜそうなるのかは「錯覚の心理学」などの説明では、長い進化の過程で、人間の脳が生存に役立つ世界の見方を獲得しているからだと言います。生まれたばかりの赤ちゃんも、教えていないのに人の顔を好むことや、ランダムな図形なのに水平方向や垂直方向に並んでいると錯覚したりします。次の写真はシャーマーが先の動画で取り上げている「火星」の表面です。

私たちはなぜか、顔を見つけてしまいます。このようなパターン認識を、人間は学習ではなく(つまり生まれた後で学んだのではなく)、もともと持って生まれてきているらしいのです。「なぜなら、私たちは進化によって顔を認識するように方向付けられているからです」と彼は述べています。

「人間はパターンを探してしまう生き物です」でもあるようです。なるほどなあと思います。

◆子どもはアニミズムの世界にいる!

昔からよく「子どもはなんでも物を擬人化する」と言われてきました。自然界にあるもの、雲や樹木や石にも動物や顔を見つけ出し、ついでに物語も作ってしまいます。よく「子どもはアニミズムの世界で生きている」とも言われたりします。子どもにとってイメージされているものが、見立て遊びになったり、お絵かきで表現されたり、楽しい創作ストーリーになったりしていることは、ご存知の通り、しょっちゅう起きていることです。

子どもにとっての「意味の理解」には、このような想像力によるパターン認識も含まれることになります。厳密にいうと実生活の中で、実際に体験していることとは違う経験(空想による想起など)も模倣対象に含まれるのでしょう。

◆自分らしく意欲的で思いやりのある子ども、に

今回の成長展では「模倣」を切り口としましたが、この営みは学校へ就学しても同じ能力を使って自分と世界を広げていきます。当園では今の時代の大きな課題になっている「人と関わる力」の育成に力を注いでいます。

乳児の頃から人と親しみ、愛着を持って心を通わせながら、人を信頼する力を持つこと。

その揺るぎない心的基盤の上で、自分から周囲に意欲的に働きかける力(自発性)を育てること。

それが自己効力感となって自信になること、できない時は他者に依存して甘えることができること。それが自立と協力(支え合って生きること)になること。

人の気持ちがわかり通じ合うこと、お友達の嬉しい気持ちが自分も嬉しくなること、悲しい気持ちは自分も悲しくなること。

このような心の通いあいが、模倣が生み出すさまざまな行動の中に見出されます。子どもにとっての子どもの存在は、とてもかけがえのないものです。こうして子どもがちは、自分らしく、意欲的で、思いやりのある子どもになっていくことでしょう。

成長展のためのミニ連載(13)模倣と知性

2021/02/13

子どもの成長には遊びが不可欠ですが、その遊びの特性の中心に「模倣」があるということを、このミニ連載ではお伝えしてきました。その模倣の中でも、物を何かに見立てる「見立て遊び」や、自分が何かになってみる「ふり遊び」あるいは、複数の子どもたちが役割を担いあって実生活やフィクションの世界を作り上げる「ごっこ遊び」の意味合いを説明してきました。

◆子ども同士の関わりから生まれる模倣

いずれの遊びでも、当園の場合は、子ども同士の関係の中で、それらが生じていることに注目しましょう。子どもの側に心を許しあう友達の存在があり、その存在を介して「真似っこ」や「やってみたい」が生まれています。満2歳になった頃から「ごっこ遊び」が成立している姿は、保育学の記述よりも、半年から1年ほど早い子どもの姿になります。大抵は満3歳以上の子どもの遊びとして「ごっこ遊び」が登場することになっているからです。

◆1歳児クラスで始まる「ごっこ遊び」

「ごっこ遊び」は英語でいうと「ソーシャル・プレイ」です。社会的な遊びというニュアンスが入ります。社会性の経験、つまり子ども同士の関わりの経験は、満3歳からで良いという世間の常識は、世界的な乳幼児研究ではすでに否定されていて、保育所保育指針でも乳児つまり0歳の赤ちゃんの頃から、人との「気持ちの通じ合い」が重視されるようになっています。

ただ、そこで想定されている「気持ちの通じ合い」は、親や保育者など大人と赤ちゃんとの間のもので、当園のように「赤ちゃん同士や0〜1歳児クラスの中での子ども同士」などを想定していません。当園の保育は、人類の進化心理学や伝統的社会の子育てなどから分かってきている最新の学際的な知見を踏まえて、「赤ちゃんの成長には、子ども同士の関わりの中で育まれるもの」を大切にしてきました。成長展の特別展示では、その様子を写真や動画でご覧いただきます。

◆保育の質は正統な文化的実践への参加

ところで、保育の質とは何かというと、それは子どもの経験の質に他なりません。では、その経験の質が良いとか高いというのは、どういうことなのでしょうか。質が良いというのは量的に何かが多いとか高いということではなく、成長の意味の質を問うことになります。個人の育ちに還元してしまうものではなくて、一人ひとりの育ちを大切にすると同時に、それが生じる関わりや環境も大切にします。しかも模倣してもらいたい文化や歴史の正統性を吟味しながら、その文化的実践に参加していく営みを生み出すことが、保育の質になります。

◆人間は8つの知性を持つ多重知能の持ち主かも

そうなると、子どもが行っている生活や遊びは、どんな正統的な文化的実践になっているのかを理解することが大切になります。例えば、模倣遊びをみてみると、その子が何に興味があるのかがわかります。さらにその内容から、どんな分野の力が育っているかも、見当が付きます。再現する内容や世界は、その子の脳内で意味のネットワークが構築されたり、更新されたりしているのですが、脳科学の知見によれば、脳の部位と知性との間に、ある程度の相関が見られるといいます。その学説でよく取り上げられるものに、脳損傷症状の研究からM・ガードナーが見出したマルチプル・インテリジェンス(M I:多重知性理論)があります。

彼は「人間は8つの才能分野を独立して持っていて、どこが得意かは個人差だ」といいます。以下に8つを箇条書きしておきましょう。単に経験的に整理したものではなく、医学的にも脳科学的にも根拠を示しています。その根拠の中に脳損傷との相関症状があり、他の動物にも類似の能力が見られ、心理学のデータとも矛盾しないことなどが述べられています。得に私が感心したのは、この8つが全て表象体系に落とし込めることです。

①言語性知能 ②音楽的知能 ③論理・数学的知能 ④空間性知能 ⑤身体・運動覚知能 ⑥対人関係知能 ⑦内省的知能 ⑧博物学者的知能

このように人間の能力を見てみると、いわゆる「頭のよさ」は、ごく限られた才能でしかありません。多重知性論から見ると、学校の「学力」はとても狭いものになります。なぜなら研究者が行う学問を「親学問」だとすると、その研究遂行に必要な知識や技能について、その内容を系統的に整理して、難易度を落として学校種ごとに教科にしているのが学校の「学力」だからです。

◆子どもが持って生まれた力が遊びに躍動

確かに、私たち保育者からしても、対人援助職である福祉現場では、学校の勉強ができることよりも、⑥の対人関係知能が豊かで情操的な軽やかさや大らかさといった「知性」の方が大切です。世間ではそうした知性を人間性と大括りにしてしまいがちですが、人類の進化の過程で得た「人間らしさ」は、ガードナーがいうように、広く奥深いものなのでしょう。

乳幼児の遊びを見ていると、人間が持って生まれてきたものの豊かさを感じざるを得ません。やりたがる意欲の強さ、物事への好奇心の旺盛さ、意味ある体験の取り込む速さ、いずれも大人はかないません。そんな生命力に満ち溢れた子どもだちの姿を成長展では確かめてみてください。

 

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