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園長の日記

成長展のためのミニ連載(12)なぜそれを模倣対象に選ぶのか

2021/02/12

子どもたちは遊び(模倣遊び)によって自分づくりと世界を探検しているのだとしたら、どうしてその経験を選んで、再現しようとするのでしょうか?その謎を知りたくなりませんか?

◆どうしてその体験を選んで模倣するのか

子どもたちは毎日の生活の中で、無数の経験をしているはずです。その無数の経験の中から、どうして「その」経験を取り出して、再び目の前に露わにして味わおうとしているのでしょうか。好きだから。楽しかったから。面白かったから。よく分かったから。・・いろんな「理由」が思いつきます。ここを改めて考えてみたいと思います。

どうして、Rちゃんは「その」お友達の隣に腰掛けたいと感じるのか(今日12日のちっちのブログ)、どうして坪井先生のギターの真似なのか、どうしてママゴトなのか、どうして電車ごっこなのか、どうして秋葉原駅周辺のジオラマづくりなのか、どうして広州タワーなのか??? どうして、らんらんの女の子たちは半袖がいいと「みんなと一緒」にこだわったのでしょうか(昨日11日のわらすのブログ)。

これまで私は「子どもが繰り返すことには発達上の意味がある」「その意味が何かは、今は分からなくてもきっと意味があるから大事にしたい」と、それこそ「繰り返し」この日記で述べてきました。

 

では、その「意味がある」という意味には、「どんな」意味があるというのでしょうか?ミニ連載の残りでは、最後にこのことを探ってみたいと思います。

◆模倣を支えている記憶の仕組み

子どもの模倣に関係する様々な行動は、それが模倣であるかぎり、一旦体験したことをどこかで記憶しており、それを想起して(思い出して意識化する)、言葉や絵や造形や振る舞い(ふり遊び、役割模倣)などで再現しているということでした。

そこで「どうしてだろう?」と不思議なのは、その子どもが「どうしてそれを選んだのか?」「どうしてそれを選んで再現しているのか?」ということです。もっと他のものでもいいだろうに。他の子どもは別のことに興味があるみたいなのに、どうして「それ」なのか?というあたりの疑問です。

今日はそこを深掘りするために、ある学説を紹介します。それは「記憶の3条件」です。学びを成り立たせているのは記憶なのですが、頭に残らない経験は模倣されようがありません。そこで、まず記憶とはどんなことだったのかみてみましょう。毎日の経験がその場限りで消えてしまわないのは、次のような条件の時だそうです。

◆記憶の3条件①意識がしっかりしていること

ごっこ遊びなどの模倣は再現ですから、その子どもの脳の中に記憶されていることは間違いありません。人は毎日生活していて、ぼんやりと過ごしていることは記憶に残りません。それは体験していないこととほぼ同じです。すぐ目の前を通ったのに、目をつぶっていたら気づきません。ですから第一の条件は「意識水準」です。脳は意識がぼんやりしている時の経験を残してくれません。意識がしっかりして、自分で注意を制御できる状態でなければ、記憶に残る体験になりません。

◆記憶の3条件②意味が理解できること

数ある体験の中から模倣するに値する体験を子どもは再現します。そこには、とても重要な、その子なりの「フィルター」が働いているのです。同じ活動をしていても、その子にとって「意味あること」でなければ、その子の心の中に届かないのです。意味を成り立たせるには、すでに経験したことから作り上げている「心の枠組み(心的枠組み)」のどこかに、パズルのようにパチっと嵌め込まれなければ受け取れないものなのです。知らない外国語を聞かされても、それらしきものが聞こえていることは知覚できても、意味はわかりません。それと同じで色々な体験も理解できないと記憶には残りようがありません。

好きな子の隣にいたい、好きな先生のそばにいたい。そうした愛着は、繰り返し触れ合ってきた人間関係の積み重ねによってできます。そのRちゃんにとっての「そのお友達やその先生」に対する「心理的パターン」は、Rちゃんだけが保持している記憶であり心的表象です。とても個別的なものです。同様に子どもたちが見せてくれる模倣遊びは、その子にとっての「意味の記憶」が繋がりあって出来上がっていくジグソーハズルのようなものです。彼は今「ここに当てはめたいピース」を探しているのであって、それ以外のピースは「今はいらない」のです。幼児の集まりでも、お友達のお話に興味がなければ集中することができません。興味がなくても集中するふりを無理やりさせると、ますます集中しなくなる恐れがあります。

◆記憶の3条件③「感情」が働いて初めて記憶される

好きなことはよく覚えているという、あれです。これはわかりやすい話でしょう。興味あることは知らず知らずのうちに覚えています。子どもは珍しいもの、新奇なものへの好奇心が旺盛です。新し物好きです。感情に基づいた記憶は忘れにくい、ということが言えます。楽しかったことや、とても辛かったことは記憶に残りやすく、心動かされていないようなルーティンの瑣末な出来事は、忘れてしまいます。

このような3つの条件がありそうなことは、脳障害の研究などからも明らかになっているようで、まだまだ諸説がありますが、経験が記憶される仕組みについて、主に2つの神経回路が見出されているそうです。冒頭の写真はパーペッツ回路と基底・外側回路の説明図です(『学び』の認知科学事典)。

◆模倣対象になぜ、その体験を選ぶのか

このような記憶の仕組みを理解すると、子どもが模倣遊びなどに、その体験を選んでいるのは、しっかりと意識している、起きている時間帯に、それ好き! 面白い! 楽しい! どうしてだろう? などの感情がまず先に豊かに動き、その子にとって意味のある、つまり理解することで世界が広がっていくような経験が「選ばれている」ことになります。既に積み重ねられている経験の延長線上に、ジグソーパズルでいう「ここをはめたい」と思っているそのパーツの部分に興味があって、そのフィルターが働いているように見えます。その体験が記憶され、再現されることでさらに強化されます。見立て遊びやごっこ遊びは、記憶を強化していることになります。人にお話をすることも同じです。その出来事をクリアに、鮮明に記憶していくことにつながっています。

ちなみに、人に述べることができる記憶という意味で、それを陳述性記憶、あるいは宣言的記憶と言われています。楽しかった体験を他人にお話をするというのは、言語性の能力と共に対人関係の才能や内省的な力などを伸ばすことになりますし、ブロックを作り上げているときは幾何学的、論理的、博物学的才能も伸ばしています。

そうすると、大人が子どもに経験させたいことを教えて覚えさせるような学びではなく、やはりこれまで実践してきたように、子どもが自らが興味あることを選んで学び始めるような生活を用意することが肝心、ということになりそうです。それが豊かにあれば、子どもの模倣活動も豊かになっていくはずです。

 

成長展のためのミニ連載(11)自己と世界の探索

2021/02/11

昔、美術館でゴジラが登場する模型のジオラマを見たことがあります。実物の何十分の1かでできた都市の風景をじっと眺めていると、あたかもそこに自分がいて、ビルの間から巨大なゴジラが歩いていく「映画」のシーンを思い浮かべていました。円谷英二は特撮で架空の世界を造形し、怪獣と巨大ヒーローが戦うウルトラマンシリーズを誕生させます。壮大な大人のごっこ遊びが、一大産業となり日本を代表する子ども向け文化にもなりました。

須田町ニ丁目の斎藤町会長はアップル社の社長で、柳森神社の前にそびえ立つ11階建てのクリスタルビルのオーナーです。会長に頼んで登らせてもらった11階からの見晴らしは、子どもたちに大きなインパクトを与えました。

子どもたちは秋葉原駅周辺を展望した後で、どんな模倣遊びを展開したか、それはすでに昨年お伝えしましたが、成長展ではその様子を動画でご紹介します。

子どもたちが作り上げていった秋葉原駅周辺のジオラマ作りを見ていると、単純に模倣とか、再現といった言葉では言い尽くせない、強烈なこだわり方、人間特有の世界への接近の仕方、あるいは世界への尋ね方といったものを感じます。この世界への身の寄せ方のようなものは、芸術家たちが昔から、神話や信仰や歴史を絵にしてきた絵画史の営みの中にあるものと同じ〈子どもならではのミメーシス〉のように見えます。

子どもたちは、今持っている身体的な力を使って、いろいろな素材に手を加えながら、イメージしたものに、どうやったら近づくか、試行錯誤しながら駅や線路やビルを作り、並べ、つないで形にしています。紙や箱や段ボールを加工して、目指す形や色や模様に変化させていく営みは、造形的な想像力を使いながら、自分の見てきた世界、自分が知っている世界を再発見していることでしょう。

 

 

成長展のためのミニ連載(10)イメージの共有

2021/02/10

体験がよく再現されるためには、本人だけがその「つもり」になっていれば済みます。面白そう、楽しそうと思う事柄を、自分だけで再現して楽しめば済みます。写真はぐんぐんのギター演奏です。

ところが、保育園の子どもたちの体験は、一人だけのものは少なくて、大抵はどの子とも共有する体験が多いようです。というのは、同じような場面を何人もの子どもたちが体験しているからで、複数のお友達が一緒になって「ごっこ遊び」を楽しんでいます。下の写真はぐんぐんの誕生会ごっこです。

複数の子どもたちによって、ごっこ遊びが成立しているとき、体験したイメージを共有できていなければなりません。この「イメージの共有」は、ごっこ遊びに欠かせないものになります。その共有のプロセスの違いに、成長の姿を見つけることができます。

満1歳ぐらいまでは、本人だけがあることを真似して遊ぶことが多いのですが、それを過ぎて「指さし」を始める頃から、他人とのイメージの共有が始まります。「ほら、あれ見て」と自分が関心を持った対象を第三者に伝えようとします。これを「共同注意」と言います。自分の注意の対象に、相手も注意を向けるように促しています。注意と注意を結合させようとしていることから「ジョイント・アテンション」が起きていることになります。下の写真はちっちの「あっちいた!」です。

指さしがあるかないかは、言葉の獲得ができるかどうかと関係します。見た犬を他者に伝えるために「指さす」ことと、それを「わんわん」と呼ぶことは、同じ仕組みだからです。犬のイメージを他者に伝える「指さし」は、「ほら、見て、あのわんわんを」というコミュニケーションだからです。この営みの延長にイメージの共有に伴う「ごっこ遊び」が成立します。

ある子どもがやっている見立て遊びを、他の子どもが見て「それ、僕も(私も)やってみたい」と思い立つこともありますが、やっていることを言葉が指し示すことで共有しやすくなっていくのです。意図と意図を結合したいという共感力が育っていくと、言葉という表象の獲得も進んでいきます。言葉が豊かになることと歩調を合わせるように、イメージの共有も広がっていくのです。下の写真は「今日のおやつはケーキ。みんなでお祝いしよう」と言う、ぐんぐんさんの「誕生会ごっこ」。

たとえば、にこにこ組の成長展の動画には「バスごっこ」が出てきます。そのとき子どもが座ってバスに乗っていることを「明示」しているのは、バスの運転席にあるハンドルです。これを持って、運転している動きを真似することで、他の子供たちも加わり、並んで運転しています。

面白いのは、一緒に並んでいても、どの子どもも「運転手」です。運転手とお客さんがいるのではなく、まだ役割分担のごっこ遊びになっていません。

しかし「ピクニックごっこ」になると、ピクニックという同じ場面を共有しながら、その中でに「出前屋さん」が現れるなど、思い思いの個人的なイメージが結合しています。

それに引き換え、わいらんすいの動画を見てみてください。協同遊びに役割の演じ合いが見られる様になります。たとえば、すいすいの子とらんらんの子による「美容院ごっこ」では、お客さんと美容師の役割が明確になっています。

あるいはお楽しみ会の劇遊びを思い起こしていただきたいのです。イメージの共有は、そのイメージの表象である「言葉」が豊かになることで、またそのコミュニケーションが複雑に共有しあっていくことで、豊かになっていくことがわかります。イメージの共有の仕方にも発達の違いが見られるのです。

 

成長展のためのミニ連載(9)生活と遊びの関係

2021/02/09

子どもに「遊んでいいよ」というと、広い空間から走り出したり(動き)、こっちにおいでと鬼ごっこを始めたり(競争)します。手にしているスプーンを楽器の様にテーブルに打ち鳴らしたり(動き)、投げたり、転がしたり、予想できないような動きの行方や結果を楽しみにしたりします(偶然)。そしてもう1つ、生活から一気に遊びに転換させるものに「模倣」があります。

今日9日のちっちのブログをご覧いただくとわかる様に、生活が「遊び」になるとき「模倣」が大きな役割をになってることが改めてわかります。子どもが遊び始めるときに、何かの物を何かに見立てることをし出します。今日のブログでは、食事をし始めるときに、テーブルに座っていたのは人形さんで、しかも自分のエプロンをつけていました。人形を自分に見立てて、あるいは人形を自分の分身、アバターになってもらい「エプロンをつけてあげる相手」を作り上げていたように見えます。

洗濯物を干すという生活の一シーンを真似て、パーテーションで靴下を干している子どもはそれをやっているときに「遊んでいる」という意識はないかもしれません。子どもの行う行動を、ここまでが生活で、ここからが遊び、というようにわけて見えるのは、大人が持っている概念に当てはめてみているからでしょう。いずれにしても、どんな見方をしようと、動かし難い事実は、実際に起きていることや起きたことを何かの代替物を用いて「再現」しているということです。

成長展で上映するぐんぐん組の動画の中には、料理を作って食べたり、食べ物をあ〜ん、と食べさせてあげたり、赤ちゃんにミルクを飲ませてあげたり、おむつを替えてあげたり、さまざまな生活シーンの模倣が登場します。

 

お誕生会も開かれたり、そこで上手に歌を歌ったり、散歩先でもお店やさんごっこが盛り上がりしています。あらゆるものがごっこ遊びになっていることがよくわかります。

そして、子どもたちは別に誰かに見てもらいたくて表現しているのではありません。夢中になって遊んでいるとき、それは子どもが入り込んでいる世界が繰り広げられていき、その世界に他の子が馴染みのある時、一緒に参加して増えていきます。

1歳児クラスでこのような協同的な見立て遊びが成立していることは、とても素敵です。共有している同じ「体験」が、それに使われる空間やものなどの「環境」によって再現されていくとき、ごっこ遊びは豊かになっていることがよくわかります。

成長展のためのミニ連載(8)見えないものも模倣する

2021/02/08

模倣するものは、目に見えるものばかりとは限らないだろうことに、今日のにこにこ(2歳)やわらす(幼児)のブログを読んで気づきました。

にこにこ組が3階の運動ゾーンで、クライミングやスイングを楽しんでいます。憧れていた場所。やってみたかった遊び。それがついにできるようになった喜び。とても楽しそうな表情と姿ですね。遊びをルールを守ることが、安全でより楽しい活動になることを体験しています。

ルールと言う目に見えないものを守るという行為もまた、模倣する力を使っています。先生がモデルを示し、それを真似して覚えていく。見ててね、やるよ、ほらできたでしょ。このように、手本を示して、教え導くことを「教示伝達的顕示」(OMC)といいます。とっても教育的です。子どもを導くと言う意味のギリシャ語でペタゴジーという教育用語がありますが「よく見ててよ、いい?やるからね、ホラね」のようなモデル提示の仕方は、ペタゴジー文脈とでも言ってよく、みている者に有無を言わさず、同じことを模倣させる強力な力を持っています。こういう見せられ方に、人間はとても弱いんです。その通りにやらなきゃ、と言う気持ちにさせられます。

子どもたちに大事なことを真似してもらいたい時、私たち保育者や教育者はこの手を使います。一見、安全な遊具の使い方というルールを伝えているのですが、大事なのは「同じようにやる」ことです。クライミングから飛び降りる時、背後に誰もいないことを確認し両足の膝を曲げて安全に着地できるようになれば、どんな方法でも構わないのですが、3歳ぐらいの子どもたちに、意図や目的を理解させ、方法は自由に任せるのでは心配だからです。型から入ります。ここはミーミーミーと蝉になってもらいます。別にセミじゃないといけない理由はありません。でも考えずに、まずそういうもんだ、ということでやります。

ここは、ちっとも本来の学びではありませんが、安全第一なのです。横断歩道は注意して渡ろう、ではダメなのです。「はい、いいですか。はい右を見て、左を見て、はいもう一度右を見て。はい、できましたか」でないと困るのです。でも、やりすぎてはいけません。自分で考えることを放棄してしまうのですから。これは自分で物事をちゃんと考える力を奪ってしまう模倣だと、心得ておきましょう。いろいろ難しいですね。

すいすい組のブログによると、6歳にもなれば、もうこんなに頼もしくなるものかと思えます。予定通りの時間内にお手伝いを終えて「これなら御徒町公園に行けるだろう」と自己評価している年長クラスすいすいの子どもたち。何かが可能になる姿を目指して、それに近づくように努力する姿は、究極の模倣力かもしれません。既に起きていることを真似するのではなく、起きて欲しい姿を目指して真似をする。より良い姿を作り出そうとする意欲も、模倣する力の応用かもしれません。

そう考えると、スポーツ選手が自分の動きを理想的な形に導くためにシミュレーションをすることを思い出します。過去の出来事を再現するならイミテーション(模倣)ですが、まだ起きていない未来の姿を先取りして模倣することが、シミュレーションなのかもしれません。それにしても人間は、このように類似したものや相似形のものを再現させながら精神世界を広げていることがわかります。とても不思議なことだと思いませんか。

成長展のためのミニ連載(7)模倣と学びの関係

2021/02/07

保育園の1階はちっち・ぐんぐんの生活エリアですが、そこで展開されている「模倣」を見てみると、子どもにとって子どもの存在がとても大きいことがわかります。お友達が楽しそうに遊んでいると、それをじっと見てた子どもがそれを真似しようとします。

遊具で遊んだり、絵本を手にしたり、カーテンの裏に入ったり、お友達が持っているものを自分も触ってみたいと思ったり。実に様々なことを子どもたちは見たり、真似したりしながら、「そのこと」を分かち合っています。「そここと」は思ったよりも広いもので、つい大人は「ままごと」とか「お買い物」とか「食事の場面」などと、わかりやすい場面で切り取ってしまい、「〜ごっこ」と名前をつけてしまいがちです。でも模倣は実に色々なところで生じています。

お友達が興味を持って手にした物を、自分も触ってみたいと手にしようとすることも、模倣ととても近い働きのように見えます。しかも、ここで大事なことは、お友達のやっていることをじっと見ている中で、いつのまにか「自分もやってみたいなあ」という自発的に「真似してみたい」という動機が生じていることです。心を寄せているお友達がやっていることだからこそ、自分も・・・という共感的な関わりが生まれているのでしょう。真似をしたいという相手やことがあることが、ここでの真似することの前提条件になっているではないでしょうか。心の通い合い、気持ちの重なり合いを求めている時もあります。

確かに、物に興味があって、知らない相手であっても「あ、あれ欲しい」と思って取ろうすることもあります。確かに、それは模倣とはいいません。でも、同じことをしたい(つまり真似したい)という動機は同じです。

模倣は、他者がある行動をしたとき、それを観察して同じような行動ができるようになることです。心理学などの辞書には「観察」と書いていることもあるのですが、実際の子どもたちをみていると、お世話をしもらうことも立派な観察の機会になっているので、やってもらったことをやってあげるようになるのも「模倣」があるからでしょう。お手伝いをしてもらった経験のある子どもは、よくお手伝いをするようになるのは、そこの「模倣」が橋渡し役をしていると考えられます。

このように、模倣は真似ることなので、色々なことを真似してできるようになることを「真似び」と呼んでいたわけで、それが「学び」の本質になっています。ですから、学びはとても広い世界です。共感作用と模倣作用が学びを生じさせているので、そうした状況や文脈があるところには、子どもの学びが生まれています。子どものそれまでに経験したことの積み重ねの延長に、身近な人がやっていることを「面白そうだなあ」、「楽しそうだなあ」とインスパイアされて、私も、僕も・・「やってたみい」となるのです。

ところで似た言葉に「学習」がありますが、それとは全く異なります。学校教育関係者は「遊びの中の学び」を「学習と同じである」ということがありますが(無藤隆)、実は全く異なります。学習には目的があってその手段を明確にする傾向が出てしまいますし、学習の内容は教える内容と同じだとみなしがちです。

しかし子どもの学びは、前述したように、その対象も内容も対人関係の中から生じるものが多いということも、学習とは異なります。特に学校教育の学習は、その内容は系統的な知識の羅列になっているので、子どもの個々の学びの文脈を考慮しにくく、本来の「学び」から遠ざかってしまがちです。子ども(人間)が先天的に持って生まれた学びには、いまだに人間的な謎に包まれたものがあって、質的にも哲学的な意味でも異なると言っていいものなのです。

子どもから学ぶ働き方改革 成長展のためのミニ連載(6)表象欲求

2021/02/06

このミニ連載では、模倣について、多面的に眺めています。そうすることで、模倣の特徴や役割、広がりや輪郭がハッキリしてくるかもしれません。模倣を前から横から上から斜めから、いろんな角度から見てみましょう。すると、模倣はまるで百面相のように多様な表情を見せてくれます。あるいは「だまし絵」のように、なにも無いと思っていた所に模倣が隠れていたりします。

一見して模倣だと分かりやすいのは、子どもが何かになった「つもり」で遊んでいたり、物を何かをに「見立て」たりしているときでしょう。前者を「ごっこ遊び」といい、後者を「見立て遊び」と言うことが一般的ですが、成長展では、この2つの様子を各クラスごとに動画でご覧いただく予定です。

子どもが頭の中でイメージしたもの、想像しているもの、思い浮かべているのもは、外から子どもを見ている私たちには見えません。子どもの精神世界は本人でないとわかりません。しかし、子どもの言葉や表情や仕草や行動から、こんなことを感じているのかな、思っているのかな、考えているのかな、と想像することができます。そうやって、私たちは子どもとコミニケーションをとっています。

子どもがイメージしていることを、話してくれればわかりやすいかもしれませんが、子どもがイメージしているものは膨大で、常に動き、うつろい行くものでしょうから、ボキャブラリーの少ない子どもにとってはなおさら、言葉という表象だけでは表し切れないものです。それが何故だか不思議なことですが、子どもたちは、その印象深く「心動かされているもの」を再現しようとします。私は「きっともう一度味わいたがっているんだ」と理解しているのですが、これは私の仮説に過ぎません。

でも私が「これは有力な仮説じゃないか」と考えているのは、大人も同じ衝動をもち、感じたことや考えたことを表そうとしたり、人に伝えようとしたり、分かち合おうとしている事実があるからです。表象を作り、それを共有しようとする衝動は、人間特有の大きな欲求なのではないでしょうか。子どもは持って生まれたものとして、つまり教わったり学んだりしたことではない「表象欲求」とでも言ってよいものを持っているのだと思います。ちなみにルドルフ・シュタイナーは、生まれながらにその表象を持っているとはっきり言っています。

画家が絵を描きたがり、詩人が詩にするように、子どもたちは見てきた風景をそこに再現したり、物語を演じたり、好きな歌を歌ったりと、意欲的に再現を「やりたがり」ます。お話の「てぶくろ」や「おおきななぶ」や「ももたろう」や「エルマーのぼうけん」も、あんなに上演したがる、小さな俳優たちでした。大人の画家、詩人、ミュージシャン、俳優、料理人、都市設計士、運転手・・ありとあらゆる表現者たちは、優れた模倣遊びやみたて遊びのプロたちなのです。成長展でご覧いただく動画には、子どもの画家、詩人、ミュージシャン、俳優、料理人、都市設計士たちが登場します。

なんと生き生きと活動していることでしょう。私たち大人は、このような仕事の仕方をしないといけないなぁと、子どもの遊びの姿から働き方改革のヒントを得ることもできそうです。

 

成長展のためのミニ連載(5)模倣が遊びを盛り上げる

2021/02/05

「園長ライオン」。Sさんは私と会うとホッとしたような顔で笑って、そう言うことがあります。最近はやってないのですが、ひと頃、朝の運動タイムで私がライオンになって子どもたちを捕まえて「食べる」という遊びで盛り上がった時期がありました。私に捕まると、抱き上げられ「むしゃむしゃむしゃ、Sちゃんを食べました」とライオンの家であるトランポリンの上に抱き下ろされます。トランポリンを3歳児のわいわいは10回、4歳児のらんらんは20回、5歳児のすいすいは30回ジャンプすると脱出できます。

ネットが森で、緑のマットを迷路のように立てて、ジャングルの樹々に見立てます。そこに隠れて逃げる動物を私が四つん這いで追いかけます。子どもたちも立って逃げてはいけません。四つん這いです。地面に手を着き、自然と受け身ができる身体になってほしいからです。「お、美味しそうな子どもの匂いがするぞ。アハハ。そんな所に隠れても無駄だあー」とかなんとか、ライオン語を駆使しながら、私は追いかけます。

子どもたちの中には「(僕は)サルだよ、こっちにおいでー」などと自分が動物になって、囃し立てる子がいます。ライオンは木に登れないという設定なので、私に捕まりそうになると、子どもたちはネットやクライミングに登ります。運動してほしいから、そうやって逃げながら運動するのは大歓迎。私は「もうちょっとで捕まえたのに」と悔しがり、「あー、眠くなったなあ。ちょっと一眠りするか」と寝たフリをすると、動物たちはライオンの立髪を触りに来ます。(私には自慢のフサフサの立髪があるんです。正直者には見えるよね、ということなっているので、大抵の大人には見えません)

そして「誰だぁ、わしの立髪を触るヤツは」と、がらがらどんのように目を覚まして、「またお腹が減ったなあ」と動物を追いかけます。朝のいい運動です。時計が「リリン」となると、ええー、もう終わり?!とブーイングが起きてました。こんなに盛り上がるの理由は、昨日説明した遊びの4要素が全部詰まっているからです。競争、運動、偶然、模倣です。ライオンや動物に「見立てる」力が人間になかったら、こんなに盛り上がって遊ぶことはないかもしれませんね。

成長展のためのミニ連載(4)遊びと模倣の関係

2021/02/04

子どもが熱中して遊んでいる時、共通するいくつかの要素が見えてきます。1つは競争や勝ち負けです。鬼ごっこや、転がしドッチをしたり、ボードゲームで遊んだり、将棋を指したり、オセロを楽しんだりしている時、勝ち負けが遊びを楽しくさせています。ルールがあってそれを守ったり、新たに作ったりしながら、勝敗の行方を競います。

次によく見かけるのは、心地よい「動き」です。子どもは身体を動かすことが大好きで、性格や特性にもよりますが、じっとしているよりも、手足を動かしたり、触ってみたり、運動したりする感覚的な刺激を求めます。ブランコや遊園地の乗り物がどうして人気なのか、身体的な心地よさがあるからでしょう。

さらに、どうなるかわからないこと、AになるかBになるか、やってみないと分からないような事に興味を持ちます。「じゃんけんしよう」と言えば、大抵やります。分かれ道で「どっちにする?」と決めかねるとき、「・・カミサマノユウトオリ」などと判断を天に任せたり、サイコロを使った双六やボードゲームなど、偶然の成り行きや結果を積極的に受け入れます。

そして、この3つの遊びの要素よりも、もっと根底的で、遊びに限らず生活全般のなかで多く見られるのが「模倣」です。人がやっていることを真似したり、「物」や「出来事」と同じように、似ているように作ったりします。見たものややったこと、つまり「体験」したモノやコトを再現させよう、繰り返してみようとします。

この4つの要素が絡み合って、子どもの遊びは展開されています。ここまでは、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で整理していますが、私はこの4つが並列的に等価なものではなくて、人間にとって「模倣」がより基本的なもので、人間を人間たらしめているものに見えます。

なぜなら人間と動物の違いがこの模倣にあったり、高度な文化を作り上げている理由になっているものだからです。そう、昨日まで語ってきたリプレゼンテーション(表象)につながる働きだからです。

子どもの表現 成長展のためのミニ連載(3)再現される表象

2021/02/04

そもそも表象などという難しそうな言葉を使うから良くないのかもしれませんが、この概念は文化の根底にあるものなので、どうしてもスキップすることはできません。外来語を日本語に訳したものなので、日常会話に出てこないものなのですが、英語ではrepresentationです。どこかで説明したかもしれませんが、sentは「ある」ということ、preが付いているので「目の前にある」という意味になって、さらにreがついているので「再び目の前にある」というのが、もともとの意味です。

◆表象の定義

表象文化論学会による説明ではこうなります。

「表象」という概念は、哲学においては「再現=代行」であり、演劇では「舞台化=演出」、政治的には「代表制」を意味しています。

そこで私は子どもの遊びを観察してきた結果、子どもはそれまで経験してきたことをもう一度味わいたくて再現しようとする傾向を持っていて、それが大人から見た文脈では「模倣」という概念に当てはまるだけではないだろうか、本人は模倣しているつもりはなくて、ただ再現して味わっているのではないか、と思うのです。

◆模倣は再現された体験である

再現しているのですから、先行する経験があるわけで、無数にある体験の中から本人の「生」にとって意味のある何かが選び取られ、それが再現されているのが遊びであろうと見えるのです。

ですから、お絵かきであろうと、積み木遊びであろうと、そこに子どもがイメージしているものがあって、それが遊びの中で表現されているなら、それは表象行為なのです。1歳児クラスのぐんぐんさんが、どこまで鬼の腰巻を想像できていたのかわかりませんが(笑)、鬼の腰巻を「再び目の前にある」ようにした作品が保育室に展示されていたのでした。

◆成長する表象

そのように見るなら、積み木で積み上がっている高い塔は、ただ漠然と積み木を積んでいるのではなくて、東京スカイツリーや広州塔やCNタワーだったりします。昨日の話では大きい丸が表象世界だとしたら、それは成長によって豊かに広がっていくと言ったのは、3歳の時は東京タワーしか知らなかったのに、今では世界中の高い塔の名前や何メートルまで覚えていたりするという意味です。子どもの住んでいる世界が言葉(表象の代表格)の習得とともに広く豊かになっているわけで、これを成長と言わないわけにはいきません。同時に豊かな学びが展開されていると言えるのです。

今回、成長展の特別展示で、遊びの中の模倣を取り上げるために、その前提となっている表象という概念について、理解を深めておいて頂きたいのです。再現したいと思う「心動かされる経験」が先にあって、その経験の質が表象の広がりと豊かさをもたらしているという関係を押さえておきたいのです。

今日3日(水)も、色々な生活と遊びの中に「再現」が起きていました。そんな視線で、子どもが何かを繰り返しやろうとしていると捉えてみると、そこには「意味のある経験が創発している」のかもしれません。その話は明日以降にまた。

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