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園長の日記

成長展のためのミニ連載(8)見えないものも模倣する

2021/02/08

模倣するものは、目に見えるものばかりとは限らないだろうことに、今日のにこにこ(2歳)やわらす(幼児)のブログを読んで気づきました。

にこにこ組が3階の運動ゾーンで、クライミングやスイングを楽しんでいます。憧れていた場所。やってみたかった遊び。それがついにできるようになった喜び。とても楽しそうな表情と姿ですね。遊びをルールを守ることが、安全でより楽しい活動になることを体験しています。

ルールと言う目に見えないものを守るという行為もまた、模倣する力を使っています。先生がモデルを示し、それを真似して覚えていく。見ててね、やるよ、ほらできたでしょ。このように、手本を示して、教え導くことを「教示伝達的顕示」(OMC)といいます。とっても教育的です。子どもを導くと言う意味のギリシャ語でペタゴジーという教育用語がありますが「よく見ててよ、いい?やるからね、ホラね」のようなモデル提示の仕方は、ペタゴジー文脈とでも言ってよく、みている者に有無を言わさず、同じことを模倣させる強力な力を持っています。こういう見せられ方に、人間はとても弱いんです。その通りにやらなきゃ、と言う気持ちにさせられます。

子どもたちに大事なことを真似してもらいたい時、私たち保育者や教育者はこの手を使います。一見、安全な遊具の使い方というルールを伝えているのですが、大事なのは「同じようにやる」ことです。クライミングから飛び降りる時、背後に誰もいないことを確認し両足の膝を曲げて安全に着地できるようになれば、どんな方法でも構わないのですが、3歳ぐらいの子どもたちに、意図や目的を理解させ、方法は自由に任せるのでは心配だからです。型から入ります。ここはミーミーミーと蝉になってもらいます。別にセミじゃないといけない理由はありません。でも考えずに、まずそういうもんだ、ということでやります。

ここは、ちっとも本来の学びではありませんが、安全第一なのです。横断歩道は注意して渡ろう、ではダメなのです。「はい、いいですか。はい右を見て、左を見て、はいもう一度右を見て。はい、できましたか」でないと困るのです。でも、やりすぎてはいけません。自分で考えることを放棄してしまうのですから。これは自分で物事をちゃんと考える力を奪ってしまう模倣だと、心得ておきましょう。いろいろ難しいですね。

すいすい組のブログによると、6歳にもなれば、もうこんなに頼もしくなるものかと思えます。予定通りの時間内にお手伝いを終えて「これなら御徒町公園に行けるだろう」と自己評価している年長クラスすいすいの子どもたち。何かが可能になる姿を目指して、それに近づくように努力する姿は、究極の模倣力かもしれません。既に起きていることを真似するのではなく、起きて欲しい姿を目指して真似をする。より良い姿を作り出そうとする意欲も、模倣する力の応用かもしれません。

そう考えると、スポーツ選手が自分の動きを理想的な形に導くためにシミュレーションをすることを思い出します。過去の出来事を再現するならイミテーション(模倣)ですが、まだ起きていない未来の姿を先取りして模倣することが、シミュレーションなのかもしれません。それにしても人間は、このように類似したものや相似形のものを再現させながら精神世界を広げていることがわかります。とても不思議なことだと思いませんか。

成長展のためのミニ連載(7)模倣と学びの関係

2021/02/07

保育園の1階はちっち・ぐんぐんの生活エリアですが、そこで展開されている「模倣」を見てみると、子どもにとって子どもの存在がとても大きいことがわかります。お友達が楽しそうに遊んでいると、それをじっと見てた子どもがそれを真似しようとします。

遊具で遊んだり、絵本を手にしたり、カーテンの裏に入ったり、お友達が持っているものを自分も触ってみたいと思ったり。実に様々なことを子どもたちは見たり、真似したりしながら、「そのこと」を分かち合っています。「そここと」は思ったよりも広いもので、つい大人は「ままごと」とか「お買い物」とか「食事の場面」などと、わかりやすい場面で切り取ってしまい、「〜ごっこ」と名前をつけてしまいがちです。でも模倣は実に色々なところで生じています。

お友達が興味を持って手にした物を、自分も触ってみたいと手にしようとすることも、模倣ととても近い働きのように見えます。しかも、ここで大事なことは、お友達のやっていることをじっと見ている中で、いつのまにか「自分もやってみたいなあ」という自発的に「真似してみたい」という動機が生じていることです。心を寄せているお友達がやっていることだからこそ、自分も・・・という共感的な関わりが生まれているのでしょう。真似をしたいという相手やことがあることが、ここでの真似することの前提条件になっているではないでしょうか。心の通い合い、気持ちの重なり合いを求めている時もあります。

確かに、物に興味があって、知らない相手であっても「あ、あれ欲しい」と思って取ろうすることもあります。確かに、それは模倣とはいいません。でも、同じことをしたい(つまり真似したい)という動機は同じです。

模倣は、他者がある行動をしたとき、それを観察して同じような行動ができるようになることです。心理学などの辞書には「観察」と書いていることもあるのですが、実際の子どもたちをみていると、お世話をしもらうことも立派な観察の機会になっているので、やってもらったことをやってあげるようになるのも「模倣」があるからでしょう。お手伝いをしてもらった経験のある子どもは、よくお手伝いをするようになるのは、そこの「模倣」が橋渡し役をしていると考えられます。

このように、模倣は真似ることなので、色々なことを真似してできるようになることを「真似び」と呼んでいたわけで、それが「学び」の本質になっています。ですから、学びはとても広い世界です。共感作用と模倣作用が学びを生じさせているので、そうした状況や文脈があるところには、子どもの学びが生まれています。子どものそれまでに経験したことの積み重ねの延長に、身近な人がやっていることを「面白そうだなあ」、「楽しそうだなあ」とインスパイアされて、私も、僕も・・「やってたみい」となるのです。

ところで似た言葉に「学習」がありますが、それとは全く異なります。学校教育関係者は「遊びの中の学び」を「学習と同じである」ということがありますが(無藤隆)、実は全く異なります。学習には目的があってその手段を明確にする傾向が出てしまいますし、学習の内容は教える内容と同じだとみなしがちです。

しかし子どもの学びは、前述したように、その対象も内容も対人関係の中から生じるものが多いということも、学習とは異なります。特に学校教育の学習は、その内容は系統的な知識の羅列になっているので、子どもの個々の学びの文脈を考慮しにくく、本来の「学び」から遠ざかってしまがちです。子ども(人間)が先天的に持って生まれた学びには、いまだに人間的な謎に包まれたものがあって、質的にも哲学的な意味でも異なると言っていいものなのです。

子どもから学ぶ働き方改革 成長展のためのミニ連載(6)表象欲求

2021/02/06

このミニ連載では、模倣について、多面的に眺めています。そうすることで、模倣の特徴や役割、広がりや輪郭がハッキリしてくるかもしれません。模倣を前から横から上から斜めから、いろんな角度から見てみましょう。すると、模倣はまるで百面相のように多様な表情を見せてくれます。あるいは「だまし絵」のように、なにも無いと思っていた所に模倣が隠れていたりします。

一見して模倣だと分かりやすいのは、子どもが何かになった「つもり」で遊んでいたり、物を何かをに「見立て」たりしているときでしょう。前者を「ごっこ遊び」といい、後者を「見立て遊び」と言うことが一般的ですが、成長展では、この2つの様子を各クラスごとに動画でご覧いただく予定です。

子どもが頭の中でイメージしたもの、想像しているもの、思い浮かべているのもは、外から子どもを見ている私たちには見えません。子どもの精神世界は本人でないとわかりません。しかし、子どもの言葉や表情や仕草や行動から、こんなことを感じているのかな、思っているのかな、考えているのかな、と想像することができます。そうやって、私たちは子どもとコミニケーションをとっています。

子どもがイメージしていることを、話してくれればわかりやすいかもしれませんが、子どもがイメージしているものは膨大で、常に動き、うつろい行くものでしょうから、ボキャブラリーの少ない子どもにとってはなおさら、言葉という表象だけでは表し切れないものです。それが何故だか不思議なことですが、子どもたちは、その印象深く「心動かされているもの」を再現しようとします。私は「きっともう一度味わいたがっているんだ」と理解しているのですが、これは私の仮説に過ぎません。

でも私が「これは有力な仮説じゃないか」と考えているのは、大人も同じ衝動をもち、感じたことや考えたことを表そうとしたり、人に伝えようとしたり、分かち合おうとしている事実があるからです。表象を作り、それを共有しようとする衝動は、人間特有の大きな欲求なのではないでしょうか。子どもは持って生まれたものとして、つまり教わったり学んだりしたことではない「表象欲求」とでも言ってよいものを持っているのだと思います。ちなみにルドルフ・シュタイナーは、生まれながらにその表象を持っているとはっきり言っています。

画家が絵を描きたがり、詩人が詩にするように、子どもたちは見てきた風景をそこに再現したり、物語を演じたり、好きな歌を歌ったりと、意欲的に再現を「やりたがり」ます。お話の「てぶくろ」や「おおきななぶ」や「ももたろう」や「エルマーのぼうけん」も、あんなに上演したがる、小さな俳優たちでした。大人の画家、詩人、ミュージシャン、俳優、料理人、都市設計士、運転手・・ありとあらゆる表現者たちは、優れた模倣遊びやみたて遊びのプロたちなのです。成長展でご覧いただく動画には、子どもの画家、詩人、ミュージシャン、俳優、料理人、都市設計士たちが登場します。

なんと生き生きと活動していることでしょう。私たち大人は、このような仕事の仕方をしないといけないなぁと、子どもの遊びの姿から働き方改革のヒントを得ることもできそうです。

 

成長展のためのミニ連載(5)模倣が遊びを盛り上げる

2021/02/05

「園長ライオン」。Sさんは私と会うとホッとしたような顔で笑って、そう言うことがあります。最近はやってないのですが、ひと頃、朝の運動タイムで私がライオンになって子どもたちを捕まえて「食べる」という遊びで盛り上がった時期がありました。私に捕まると、抱き上げられ「むしゃむしゃむしゃ、Sちゃんを食べました」とライオンの家であるトランポリンの上に抱き下ろされます。トランポリンを3歳児のわいわいは10回、4歳児のらんらんは20回、5歳児のすいすいは30回ジャンプすると脱出できます。

ネットが森で、緑のマットを迷路のように立てて、ジャングルの樹々に見立てます。そこに隠れて逃げる動物を私が四つん這いで追いかけます。子どもたちも立って逃げてはいけません。四つん這いです。地面に手を着き、自然と受け身ができる身体になってほしいからです。「お、美味しそうな子どもの匂いがするぞ。アハハ。そんな所に隠れても無駄だあー」とかなんとか、ライオン語を駆使しながら、私は追いかけます。

子どもたちの中には「(僕は)サルだよ、こっちにおいでー」などと自分が動物になって、囃し立てる子がいます。ライオンは木に登れないという設定なので、私に捕まりそうになると、子どもたちはネットやクライミングに登ります。運動してほしいから、そうやって逃げながら運動するのは大歓迎。私は「もうちょっとで捕まえたのに」と悔しがり、「あー、眠くなったなあ。ちょっと一眠りするか」と寝たフリをすると、動物たちはライオンの立髪を触りに来ます。(私には自慢のフサフサの立髪があるんです。正直者には見えるよね、ということなっているので、大抵の大人には見えません)

そして「誰だぁ、わしの立髪を触るヤツは」と、がらがらどんのように目を覚まして、「またお腹が減ったなあ」と動物を追いかけます。朝のいい運動です。時計が「リリン」となると、ええー、もう終わり?!とブーイングが起きてました。こんなに盛り上がるの理由は、昨日説明した遊びの4要素が全部詰まっているからです。競争、運動、偶然、模倣です。ライオンや動物に「見立てる」力が人間になかったら、こんなに盛り上がって遊ぶことはないかもしれませんね。

成長展のためのミニ連載(4)遊びと模倣の関係

2021/02/04

子どもが熱中して遊んでいる時、共通するいくつかの要素が見えてきます。1つは競争や勝ち負けです。鬼ごっこや、転がしドッチをしたり、ボードゲームで遊んだり、将棋を指したり、オセロを楽しんだりしている時、勝ち負けが遊びを楽しくさせています。ルールがあってそれを守ったり、新たに作ったりしながら、勝敗の行方を競います。

次によく見かけるのは、心地よい「動き」です。子どもは身体を動かすことが大好きで、性格や特性にもよりますが、じっとしているよりも、手足を動かしたり、触ってみたり、運動したりする感覚的な刺激を求めます。ブランコや遊園地の乗り物がどうして人気なのか、身体的な心地よさがあるからでしょう。

さらに、どうなるかわからないこと、AになるかBになるか、やってみないと分からないような事に興味を持ちます。「じゃんけんしよう」と言えば、大抵やります。分かれ道で「どっちにする?」と決めかねるとき、「・・カミサマノユウトオリ」などと判断を天に任せたり、サイコロを使った双六やボードゲームなど、偶然の成り行きや結果を積極的に受け入れます。

そして、この3つの遊びの要素よりも、もっと根底的で、遊びに限らず生活全般のなかで多く見られるのが「模倣」です。人がやっていることを真似したり、「物」や「出来事」と同じように、似ているように作ったりします。見たものややったこと、つまり「体験」したモノやコトを再現させよう、繰り返してみようとします。

この4つの要素が絡み合って、子どもの遊びは展開されています。ここまでは、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で整理していますが、私はこの4つが並列的に等価なものではなくて、人間にとって「模倣」がより基本的なもので、人間を人間たらしめているものに見えます。

なぜなら人間と動物の違いがこの模倣にあったり、高度な文化を作り上げている理由になっているものだからです。そう、昨日まで語ってきたリプレゼンテーション(表象)につながる働きだからです。

子どもの表現 成長展のためのミニ連載(3)再現される表象

2021/02/04

そもそも表象などという難しそうな言葉を使うから良くないのかもしれませんが、この概念は文化の根底にあるものなので、どうしてもスキップすることはできません。外来語を日本語に訳したものなので、日常会話に出てこないものなのですが、英語ではrepresentationです。どこかで説明したかもしれませんが、sentは「ある」ということ、preが付いているので「目の前にある」という意味になって、さらにreがついているので「再び目の前にある」というのが、もともとの意味です。

◆表象の定義

表象文化論学会による説明ではこうなります。

「表象」という概念は、哲学においては「再現=代行」であり、演劇では「舞台化=演出」、政治的には「代表制」を意味しています。

そこで私は子どもの遊びを観察してきた結果、子どもはそれまで経験してきたことをもう一度味わいたくて再現しようとする傾向を持っていて、それが大人から見た文脈では「模倣」という概念に当てはまるだけではないだろうか、本人は模倣しているつもりはなくて、ただ再現して味わっているのではないか、と思うのです。

◆模倣は再現された体験である

再現しているのですから、先行する経験があるわけで、無数にある体験の中から本人の「生」にとって意味のある何かが選び取られ、それが再現されているのが遊びであろうと見えるのです。

ですから、お絵かきであろうと、積み木遊びであろうと、そこに子どもがイメージしているものがあって、それが遊びの中で表現されているなら、それは表象行為なのです。1歳児クラスのぐんぐんさんが、どこまで鬼の腰巻を想像できていたのかわかりませんが(笑)、鬼の腰巻を「再び目の前にある」ようにした作品が保育室に展示されていたのでした。

◆成長する表象

そのように見るなら、積み木で積み上がっている高い塔は、ただ漠然と積み木を積んでいるのではなくて、東京スカイツリーや広州塔やCNタワーだったりします。昨日の話では大きい丸が表象世界だとしたら、それは成長によって豊かに広がっていくと言ったのは、3歳の時は東京タワーしか知らなかったのに、今では世界中の高い塔の名前や何メートルまで覚えていたりするという意味です。子どもの住んでいる世界が言葉(表象の代表格)の習得とともに広く豊かになっているわけで、これを成長と言わないわけにはいきません。同時に豊かな学びが展開されていると言えるのです。

今回、成長展の特別展示で、遊びの中の模倣を取り上げるために、その前提となっている表象という概念について、理解を深めておいて頂きたいのです。再現したいと思う「心動かされる経験」が先にあって、その経験の質が表象の広がりと豊かさをもたらしているという関係を押さえておきたいのです。

今日3日(水)も、色々な生活と遊びの中に「再現」が起きていました。そんな視線で、子どもが何かを繰り返しやろうとしていると捉えてみると、そこには「意味のある経験が創発している」のかもしれません。その話は明日以降にまた。

鬼のイメージ 成長展のためのミニ連載(2)表象と模倣の関係

2021/02/02

◆今日は節分

子どもたちにとっての節分は、やっぱり鬼退治。福は内鬼は外の掛け声で、豆をまいて鬼をやっつけます。でも、今年は感染症対策優先のため、幼児クラスは鬼の登場は無し。また豆まきも「誤食」防止のためにもやめました。厚生労働省から通知も届いてました。豆の誤食による事故が多いそうです。にこにこ組は担任が鬼の役をやる鬼退治ごっこ(クラスブログ)を楽しみました。お昼ご飯は鬼の顔に見立てた鬼ライス。3時のおやつは恵方巻でした。恵方巻は南南東の方を向いて食べました。

私が心惹かれたのは、ぐんぐんさんのおやつの時です。Uちゃんがおかわりを欲しくて、恵方巻を半分にしてあげたのですが、どうしても1個欲しかったらしく、泣きながら訴えるのです。

泣いてでも食べたいと欲しがる気持ち。こんなに思いっきり気持ちが出せてうらやましい。こういうことをやらないようにするのが大人になることだと、私たちは思いすぎているのかもしれません。なんとも微笑ましい素直な気持ちなんでしょう。とりあえず半分食べるように促してみると、食べながら泣きやみました。

◆多様な鬼のイメージ(表象)

子どもたちの生活や遊びは、まるでお伽の国のようです。鬼が出てきては泣き笑い、おいしいものには心を奪われ、絵本や紙芝居の世界に身も心もどっぷりとつかり、面白いと思ったことを絵に描いたり、積み木で再現してみたり。子ども1人ずつ、異なる感情のうねりや起伏や物語が、生活の中で響き合っています。

例えば、今日のことだけでも子だもたちの周りには鬼がいっぱいです。絵本に出てくる鬼、桃太郎の鬼が島の鬼、鬼滅の刃の鬼。・・・お伽の国と言うのは、おとぎ話の国と言う事ですから、現実の世界ではなくて想像の世界、イミテーションの世界、嘘っこの世界です。しかしそれは、子どもにとってはそうでなくてはならないあり方です。子どもが呼吸し生きている世界です。7歳までは夢の中。そんな言い方をするのも、子どもは大人と違って半分は非現実的なファンタジーの世界に住んでいるからでしょう。例え話ではなくて本当にそういうことです。

◆表象と模倣の関係

成長展で模倣と言う切り口で子どもの姿を捉えてみたとき、きっとそこにも成長の足跡が見られるでしょう。こんな図を頭に思い描いてみてください。大きな丸があります。それは子どもが生きている心の世界です。「表象世界」とでも名付けておきましょう。その中にもう一つ丸を書いてください。それが「見立て遊び」や「ごっこ遊び」などと名付けている遊びの世界です。

例えば子どもにとっての鬼のイメージも、年齢によって全く変わっているはずです。成長していくこと、大人になっていく事は、表象世界が広がっていくこと、豊かになっていくことを意味します。外側の大きな丸い円です。それは心の内面ですから、外からは見えません。

ところが見える時があるのです。言葉で話したり、表情や仕草で伝えてくれることもあります。もう少し大きくなれば歌や詩にしたり、大人なら俳諧や小説、映画や能舞台になります。それが、乳幼児にとっては「みたて遊び」や「ごっこ遊び」が言葉や記号では語り尽くせない豊かな象徴的表現行為なのです。内側の丸い円です。内面の豊かなイメージが、みたて遊びやごっこ遊びの姿をして可視化されます。内面の世界が、外側にあふれ出してくるようなものです。まるで地球の中のマグマが火山を作って噴火しているかのようです。子どもの心はそれを取り巻く環境との相互作用によって作られていくと言うのはこういうことです。ですから、みたてるための材料や素材が子どもの身近なところに、置いておかなくてはならないのです。

成長展ではその噴火している遊びの様子を見てもらうことになります。そのそれが何を表しているのか、表象の意味や価値、あるいは民俗学的な意味については、また別の機会に説明したいと思います。

成長展の特別展示は模倣がテーマ ミニ連載(1)成長と模倣

2021/02/01

緊急事態宣言は延期されますが、成長展は予定通り実施します(園のニュース)。今年の成長展では「特別展示」として、子どもの「模倣」に焦点を当ててみます。子供の育ちについてお伝えしようとする行事で、テーマが模倣だと言うとどう思われるでしょうか。意外な気がするかもしれません。何の関係があるんだろうと思われるかもしれません。人の成長に真似することがどのように影響すると言うのだろうと、不思議に思われるかもしれません。

ところが実は、人間の本質の真ん中に模倣があると言っても過言ではないのです。このことを成長展までの2週間、詳しく説明してみたいと思います。

模倣と言うのは英語ではイミテーションです。本物に対して偽物がある、あの偽造品のことです。高級ブラントのイミテーションを作ったり売ったすることは違法です。パクリや贋造は褒められたものではなく、ときには犯罪にもなります。

ところが学びの世界においては、その本質は真似することにあります。学びの語源か「まねび」にあることは有名です。プラトンやアリストテレスは芸術の本質はミメーシス(世界の模倣表現)にあると喝破していましたし、世阿弥の序破離にしても、ピアジェの発達論にしても、人間の営みに模倣の要素は本質的なものとして理解されているのです。

生まれてすぐの赤ちゃんは誰に教えてもらうわけでもなく、親の表情を模倣し、模倣されることを喜び、目の前にあることを真似し(即時模倣)、目の前になくても思い出して真似をする(遅延模倣)ようにそだっていきます。世話をしてもらったことは真似をしてやってあげるようになりますし、ごっこ遊びやみたて遊びは、面白いと思ったことの再現遊びです。

普通は模倣とは言いませんが、日本語を獲得すると言う事は、実は日本語を上手に真似して使いこなせると言うことなのです。みなさんも外国語を学ぶ苦労を思い出してみましょう。語学の勉強も真似をして発音する、真似をして文字を書く、そういう練習の本質は模倣力であることに同意してくださることでしょう。

ことほどさように、人の成長と模倣は切っても切れない関係にあり、その表層的なものと深層的なものが私たちの表象文化を豊かにしていることにもなります。さて赤ちゃんから年長さんまで、子どもたちはどのように模倣しているのか、その姿を見せてくれるのでしょう。成長展はその様子を動画で点描していきます。

 

見晴らしのいい場所を探して(保育プランのために)

2021/01/27

◆保育を見渡せる場所とは

いい保育をするために、どれだけ見晴らしのいい場所に行けばいいんだろう。全体を俯瞰するということは大事なことです。それはわかっていたのですが、どこにもっと見晴らしのいい場所があるのか迷っていたところがありました。コロナがもたらしたものは、ろくなものはないのですが、あえて逆にプラス志向で考えれば、視界が悪くなった分だけ、世の中のステイクホルダーの人たちが、世界全体をもっとよく見ようとするようになったような気がします。まるで、曲がりくねった夜の山道をヘッドライトもつけずにスピードを上げていた車が、やっとヘッドライトをつけないと危ないと思い直したかのようです。

コロナは危機を露わにしたという言い方がよくされていますが、すでに進行していた危機をやり過ごしてきたツケが、こんな形で人類に露わになって見えてきたのでしょう。でも多くの人が思っている危機よりも、かなり深刻な危機なのですが、それは見晴らしのいい場所へ行かないと見通せません。

◆アントロポセンから見える保育

その危機の全体像を把握するために、今最も見晴らしのいい場所は「人新世」(アントロポセン)に関する論点を理解することです。いろいろなガイダンスがありますが、ある日本の知の巨人によるとクリストフ・ポヌイユ&ジャン=バティスト・フレソズによる大部『人新世とは何か』(青土社)がベストのようです。まだ読んでいませんが、その内容を詳しく解説したものを見ると、子どもたちの将来の世界で何が待ち受けているかを知ることができそうです。

明日配布する園だより2月号の巻頭言で、1月号に続き「人新世」時代の保育をスケッチしました。今年は折につけ、このかなり巨視的な視野で保育を語ることが増えると思います。保育実践はかすかな変化となって現れるものでしかないかもしれませんが、ワニの口のように、小さな角度であっても時間が経てば大きな開きになってしまうものですから、その僅かな差は侮れないものです。

地球環境の変化はじわじわと迫ってくるものなので、子どもたちに模倣されても恥ずかしくない行動を選んでいこうと思います。探求したいのは、自然の一部である子どもが持ってうまれた資質に対して、これからの社会で求められる資質・能力を身につけるプロセス、つまり保育の過程に変更が必要となるかどうかです。

人間が地質学的な規模で地球に変化を加えているその力の源泉は、生物としての人間というよりも、それが編み出した技術や生活様式、つまり文明の力ですから、その質の転換が目指すものになります。共有の社会資源を新しい自治組織(アソシエーション)が管理するコミュニティを育てたい。非営利団体、たとえば町会や生協の活動に近いものに、どうしても千代田区が絡んでもらう必要があり、そこには区長の元に次世代の戦略室が機能するといいのでしょう。そんな地域活動プランを話し合う中で千代田区の保育の形が見えてくると楽しいのですが。

 

本当は何をしたいんだろう?

2021/01/26

 

昨日の日記の続きですが、私が「小説が無性に読みたい!」と思っている<自分の本音>との出会い方は、子どもたちが<夢を持つこと>と同じところがあります。本当は何をしたいんだろう?という問いは、自分にも他者にも向けることが大切だからです。自分に向ければ、私が唱えている幸せの第一条件と重なるものになり、子どもに向ければ、保育のプロセスの起点(スタート地点)に立つことになるからです。

◆「本当は何をしたいんだろう?」

この問いを自分にちゃんと向けるために私は瞑想することが好きです。自分に向かってくる様々な刺激、情報に振り回されないように、自分に自分で作用させることができるようになっていくからです。昼間の起きている時に受け取った刺激に、自分がどのように反応したか。その自分の中で起きている心の中の経緯を観照するのです。そうすると自分の人格特性が見えてきます。大抵、人間は周りのことに振り回されて生きています。それは自分が選んでいると思っていながら、実は周りの情報(たとえばコマーシャルや流行やブランド)に騙されていたり、唆されていたりします。それを自覚していればまだいいのですが、その自覚がないままに生きていくのは「不自由」な状態だと言えるでしょう。

自分がどんな欲求を抱えていて、それによって自分がどのように振り回されているがわかってくると、大抵は恥ずかしい自分が見えてくるので、それを克服したいと思うようになります。そこに自発的な自由意志が芽生えるといっていいでしょう。その時から人は本当の意味で自由に生き始めると言っていいでしょう。

これは精神を自由に保つためにとても大切な認知スキルだと思っています。誰が言ったのか忘れましたが、高校生の時に座右の銘にしていたフレーズが「感情は認識の窓である」というものです。「もっと落ち着かんば、そげんイライラしとったらいかんばい」とか「あわてんでよかけん。ゆっくりせんね」などという言葉が好きでした(長崎弁です、すみません)。情緒の安定というのは、欲求が満たされると生じる心の状態ですが、欲求には自由意志というものも含まれるのです。生理的な欲求を満たしても、愛や承認や達成感や絆など社会的な欲求が満たされないと心は落ち着きません。その社会的な欲求、つまり人間関係の欲求の中でも自由の欲求は気付きにくく、曖昧な対人関係の間に生きる日本人には、〈精神の自由〉をイメージするのは難しいようです。

のちに、高橋巌さんが行っていた勉強会でルドフル・シュタイナーの思想と出会い「いかにして超感覚的認識を獲得するか」が20代前半からの私のバイブルになりました。思考と感情と意志を自分に正当に自分に作用させることの重要性を学びました。心に静かで深い湖をたたえた人間になりたいと思うようになっていったのです。

◆「自分は、本当は何をしたいんだろう?」

そして、その問いに対する回答が納得できるものであれば、よく理解できるものであれば、心に大きな共感を呼び起こします。自分の心にあるものに気づき、そうか!そうだったんだ!と分かれば嬉しいものです。これを保育用語で説明するなら、認知的な営みが、同時に喜びや意欲を掻き立てる非認知的な情動をもたらすからです。認知も非認知も本当は常にセットなんですよね。それなのに我慢強さや最後までやりぬく意欲などの非認知的なものだけを切り離して大切にしましょうという保育論が、まことしやかに流布されるのは困ったものです。もし我慢強さや粘り強さが育つとしたら、何かをやりたいという強い意欲に先立つ認識(知ることやわかること)があったはずなのです。それは、その対象への心配りやケアリングも起きていて、その結果として、それが面白い!や楽しい!の心情となっていったはずなのです。将棋を楽しんでいる子どもたちを見ていると、その世界のルールや方法をよく理解できればできるほど、楽しいと思えるようになっていっています。

そこでやっと子ども理解の方の話になります。

◆「子どもは、本当は何をしたいんだろう?」

常にこの視線を持って子どもと関わっていたいものです。こう見えるけど、本当は? 一見ああしているみたいだけど、本当は? この眼差しを忘れないようによーく見てあげよう、それが保育の第一歩。そのために、文化的な実践の窓を美しく用意してあげたい。あ、面白そう!と興味を持って接近していけるように。色々なゾーンを用意して、環境を用意して、色々な人が関わって、そして目に見えない歌や遊び方や生活の方法やアート的なセンスと出逢わせてあげたい。園の中だけではなく、地域にも世界にも視野を広げながら。

その世界との相互作用によって引き出される子ども一人ひとりの個性の中に、「ああ、こんなことをやりたかったのかもしれないね」が見えてくるものです。本人だって、何をやりたいのかなんて、まだわからないからです。何やりたい?「楽しいこと!」これが子どもなのでしょう。そのうち「夢」が豊かなものに成長していくことでしょう。

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