MENU CLOSE
TEL

園長の日記

今年の一文字は「快」を抱負に

2021/01/05

4歳になったばかりの男の子から、たくさんのことを教えてもらいました。その子の持っているその知識は私のものを超えていて、「興味のあることはこんなに世界をキラキラと輝かせるものなんだなあ」と羨ましいほどです。人には興味の先に気づきや発見が待っていて、そこから世界が広がっていくのです。その広がり方は、知識だけではなく、実際に行ってみたい、見てみたいという行動も促します。これは強い。実体験を伴いながら広がっていく世界。みんながこのように生きていけたら、素晴らしいだろうと思いました。

私は今年の抱負を漢字で「快」という一文字にしました。子どもも保護者の方も、そして先生たちも一人ひとりが心地よく過ごせるようにという意味です。快い気持ちでいることを平凡と受け止めるか、それとも、それを抱負とせざるをなない逆説と捉えるか、あるいはもっと哲学的にエピクロスが唱えたようなアタラクシアの境地を目指す意味なのか、受け止め方はさまざまかもしれません。でも私は、自分で名付けた「幸福の3条件」の前提だと思っているのです。

今日5日の新年会で、この意味を説明しました。新年会と言っても午後の休憩時間に職員が5〜6名ぐらい20分ぐらい集まって開いた慎ましやかな茶話会でしかありません。それぞれが今年の抱負を漢字一文字で表して述べ合う時間です。私は常々、人が幸せに生きるには、3つのことが必要だと考えています。それを幸福の3条件としているのですが、それは次の3つです。

まず自分のやりたことができることが第1の条件だと考えています。それは仕事であろうと趣味であろうと関係ありません。好きでもないことをやり続けてもそれは満足できないからです。その欲求の強さについては、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスから学びました。人は死に直面して自分の人生を振り返るとき、多くの人が「本当は、こんなことをしたかった」と後悔するそうです。

幸せの第2の条件は、好きで選んだ仕事や活動が、他者にとっても意味のある何かになっていることです。利他性があること、あるいは自分のやっていることに社会的な意味を感じること、もっと平たくいうと社会の中で「やりがい」や「手応え」を感じることです。起業家は「志」がなければ、その実現に向けた努力を支えることもできません。金銭的成功や社会的な名誉欲などを得ても、虚しさを拭い去ることができないものだからです。人は社会的な動物なのです。やりたいことが人のためであるような仕事につけたら幸せです。エッセンシャルワークもそのような仕事としては、わかりやすいものです。

そして幸せの第三の条件が、身近な人々との心地よく過ごせることです。家族や友人、会社や地域の人々と心を通わせ、愉快な時間が共有できることです。この3番目のことはとても大切です。一番目の自分の夢、2番目の社会的貢献、それぞれを夢中で追いかけることはいいのですが、そのプロセスで3番目を軽んじる人と会うと、その独善性に嫌気が指します。社会的に本当に一流の人とは、第3の条件から見てもおおらかでユーモアに満ち、一緒にいることが快いものだからです。

実は、子どもは生まれながらにして、この3番目の達人かもしれないと思う時があります。面白いことが好きで、楽しいことに目がなく、喧嘩をしても根に持ちません。喜怒哀楽がはっきりとわかりやすく、心根がまっすぐです。このまま、真っ直ぐに社会性を身につけてくれたら、どんなにいいだろと思います。大人になるというのは、この子どもの心を失わずに社会性を身につけることが理想だなと思います。子どもたちと心を通わせていると、己の心情をもっと磨きたくなります。子どもは大人を謙虚にさせてくれます。

元旦に考えるこれからの保育の価値

2021/01/01

2021年元旦。21世紀も5分の1が終わり、新しい10年が始まりました。昨日の大晦日に全国で4515人、東京で1337人の新規感染者を記録した新型コロナウイルス第三波の真っ只中で迎えることになった新年初日は、家で静かにスタートです。年末に済ませた幸先詣というのも、初めての体験です。大晦日と元旦の時間の違いから感じた違和感がありました。それは無事に一年が終えられることへの感謝の参拝と、年が明けておめでたいという気分で行う参拝との違いです。でも神と対話する窓口とチャンスはどちらでも同じでした、少なくとも私には。多分自然のあらゆるところに神を感じる汎神論の日本人にとって、多くの人がどちらも受け入れるのではないでしょうか。

これを機に、働き方も休暇の取り方も分散化したらどうでしょう。大打撃の旅行業界のためにも、GWだとかCWだとか繁忙期と閑散期が周期的にやってくる旅行のシーズン化はやめにして、移動の平準化を、経団連かどこかが旗を振ったらどうなんでしょうか。マイクロツーリズムのアイデアもうまく機能しなかったのももったいないことでした。都道府県のガバナンス力を今よりも遥かに向上させないとうまくいかないこともわかりました。

新型コロナの問題は、回答のない試験問題だと考えると、同じ問いを世界中に問いかけていることになります。これは学校が育成する「学力」が最も苦手な問題です。この試験問題は、制限時間がありません。ただし時間がかかると生存が脅かされます。カンニングも話し合いも投資も全てOKなのですが、こうした課題を解決できるかどうか。それは私たちのこれまでの「生きる力」や「教育の成果」や「知性全般」が試されています。学問や科学や哲学や政治の本当の力が問われています。

昨年は「不要不急の用」とは何かをよく考えました。ほとんどのことが不要不急かもしれないと思えました。同じように感じている人が増えたのでしょう、市場や資本主義を問い直す議論も増えました。これはいいことです。人類の持続可能性と気候問題の視点から、資本主義と経済成長を問い直す生き方の模索も若い人たちの間で始まっています。そういう意味では、エッセンシャルワークである保育は、市場サービスという交換価値にしてしまってはいけないのです。保育は必要だからあるという使用価値そのものだということを明確にし、その理解を行政担当者を含めて関係者が共有することが大切なのでしょう。

保育とは、子どもたちに正統な文化的実践を見せていくこと、その体験ができるようにしてあげること、そういう実践に興味や関心を持てるような環境や生活を用意することです。それらとの出会いの架け橋役が保育者です。ですから私たち保育者は、何が望ましい生活なのかという価値判断の専門家である必要もあります。そのために未来にふさわしいものを探し出し、実践したいと思います。

今年を振り返るとしたら

2020/12/31

毎年、年末になると一年を振り返りながら、なぜか何かに「感謝」したい気持ちになります。また仕事から離れて、家族と一緒にいる時間がたっぷりとあるのはいいものでしょう。でも子育てをしている頃は、ある意味で何をするにも自分のことは後回しになることが多いので、親の勤めを果たすことで「いっぱい、いっぱい」だっとような気もします。常にやることがあって待ってくれない時間の連続ですからね。じっくり何かを考えるなんてこともなかなか出来ません。

一昨日、27歳になった子どもに「どうしてあの園を選んだのか?」と聞かれて「その頃は、まだお父さんの園がなかったからだよ」と答えました。でも、いろいろ考えました。私も若い頃の考えと今とはかなり違います。その園がとても研修に力を入れていたことを思い出しました。でも本人は園生活のことをほとんど覚えていないらしく、親から話して聞かされたことが園生活の記憶になっていると言います。そういうものかもしれないと思います。

しかし、本人が覚えていなくても、確実に大切な体験というものがあって、それが後々にまで影響を与えることは間違いありません。他人や社会への信頼感、自分への肯定感、自信、他者との心の交流で育つ様々な心情。センス・オブ・ワンダーを伴うような物事への興味や関心の広がりなど、乳幼児からの体験の質の違いは、育ちに影響します。

同じ観葉植物でも植木鉢を大きくすると、大きく育ちます。それに似ているかもしれません。その根っこの部分は本人が知らなくてもよくて、それに見合った幹や葉っぱや花や実になるのかもしれません。その根っこの部分というのは、人間の場合、脳や体幹など心身の基盤と言われているものになるのでしょう。そんな根っこの部分を本人が覚えていないのは当たり前でしょう。脳が自分の育ちを意識化できようになる前の育ちなのですから。

人には思い出したくても思い出せない無意識の領域というものがあって、きっと一年をどんなに具に振り返っても、思い出したくないものは意識できないようになっているのかもしれません。その方が健康にいいということもあります。また思い出せないからといって、たっぷり時間をかければ思い出せるかというと、そういうものでもありません。それは何年経っても思い出せないものは思い出せないものなのでしょう。

さらに絶対に思い出せないことがあります。それは元々、気づかれていない物事です。もともと再生される対象にすらなっていません。思い出したい「思い出」になっていないことは、無かったことと同じです。体験がないことは無と同じです。人は体験すること、つまり育つ部分を使うことで発達します。その体験がないなら育ちようがないのです。思い出すかどうかということの以前の問題なのです。

ところで今年を振り返って思い出すべきことはなんでしょう。それは未来に影響すること、これからの生活に影響することです。教訓として明記しておきたいものですが、その1つは新型コロナウイルスや気候変動が教えてくれたことです。自然と人間の関係に関するものです。私たち人間も自然であり、種として必ずDNAを残しながら個体は死にます。人間はその自然から飛び出した部分を持ってしまいました。それが理性であり自意識です。思い出もその1つです。

その理性というかロゴス(悟性)の部分が、地球上で持続可能な生存を脅かすほどに自然とのバランスを壊し尽くそうとしています。その現象の1つが埋もれた病原体を際限なく再生させたり、地球温暖化などで自然を破壊しているのです。こんな時代を地質学上の学名で「人新世」と言います。自然と理性とのバランスの回復を描いた物語は、例えば宮崎駿の「風の谷のナウシカ」です。ナウシカがやったことを、大人は真似しないといけない時代なのです。

そんな時代に突き進んでいく原動力となっているのが、経済成長を疑わない資本主義経済の暴走です。とにかく売れるものを作り出して経済を回すことを最優先させざるを得ない経済の仕組みです。これを変えるのは、とても困難なように思えますが、脱成長経済への大転換を早期に果たさないと「引き返せない地点」はもうすぐです。その地点とは、10年後、2030年ごろですから保育園を卒園する子たちが高校生になる頃です。

このことを身近な人の死を通して告発したのが今年という年でした。また脱成長経済を目指すべきだということを明確に説明してくれているのが斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)でした。園だより1月号でも書きましたが今年の教訓は、どうしてもこのことの「気づき」から、物事を組み立て直していくしかないように思えます。

鬼滅の刃が大ブームになった年ですが、鬼は人間が作り出す格差社会だったりします。あのアニメから、今の時代に相応しい社会のテーマを導き出すのは難しい気がします。間違っても地政学的な敵を作ってそれを鬼扱いだけはしないようにと無用な心配をしてしまいました。

 

「人新世」時代の保育とは?

2020/12/25

園だより1月号 巻頭言より

 

昨年1月の巻頭言の書き出しで「今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります」と書いて、見事に外れました。その文章のすぐ後に「この一年でさえ、どんな年になるのかわからない」とも述べていますが、その数ヶ月後に「コロナ」でこんな一年になるとは、誰も想像していませんでした。何が起こるかわからない時代にすでになってしまっています。こんなとき、私たちは何を指針にして物事を考えるといいのでしょうか。

経済思想家の斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』(集英社新書)の中で、人間の今の経済活動のままでは地球環境を破壊してしまうと警鐘を鳴らしています。「人新世」というのは、これまで人類は大いなる自然から影響を受けて生きてきましたが、今の時代は人類が地球規模で自然を変えてしまっている時代になっているという意味です。このままではコロナ禍をはじめ気候変動や食糧危機などを招いてしまうので、なんとしても脱経済成長、脱成長コミュニズムへと転換する必要があると提唱しています。

この考え方には、何が成長なのか、何が進歩なのか、あるいは何が善きことなのかを考え直すことも含まれています。その価値転換が先にできないと、今の仕組みを回している大きなモーメントを「ずらす」ことはできないでしょう。例えば「経済の成長なくして財政再建なし」と言われれば、多くの人は「そうだよな」と思ってしまうからです。経済を成り立たせている下部構造(マルクス)の仕組みをどのように転換していくのか、その経済と暮らしを持続可能なように描き直す作業が、どうしても必要なようです。

でも、そんな大きな話と日々の暮らしをつなぐための「物語」が欲しいと思います。発想の転換という意味では、労働と余暇という区分けではなく、働くことが楽しみや喜びとなるような生活への転換、時間で測定される対価から、共感と貢献を実感できる価値社会への転換、そういった働き方や生き方への転換を考えていきたい。仕事がアートになったり、勤労が精神性の開発につながったり。あるいは生産結果の効率追求の競争から、生産プロセスの中に価値を見出せるような活動への転換です。

このことを「保育」という仕事で実践するとどうなるのか?きっと人新世の「保育論」が必要になるでしょう。その具体的な実践を面白いと思えるような一年になるといいのですが、どうでしょうか。

自分の姿を見て楽しむ子どもたち

2020/12/23

子どもが自分の姿を眺めたときに、どう感じたり何を思ったりするんだろう。今日23日(水)はそんなことを考えながら、おたのしみ上映会を運営しました。私は「お楽しみ会」というものを1997年度から毎年やってきましたから、今年で23回目になります。これまでの経験からすると、舞台の上に立って何かをやるようなことが恥ずかしかったり、億劫だったり感じている子どもは、もしそれを撮影したものがあったら、きっと見たいと思いません。年齢によっては親に見られたくもないかもしれません。ですから、そのようなことになるような劇遊びの演じ方は決してしません。その子らしく参加したい方法を作るようにします。

今回のおたのしみ上映会をご覧いただいたらお分かりの通り、そのような姿は皆無です。どの子どもも楽しそうにやっています。そして、親子で自分の姿を見ている子どもたちは、自分が出てくると身を乗り出したり、親に教えたり、歌を歌い出したり、一緒に手遊びを始めたりしていました。劇遊びをもう一度見て楽しむことができるた上映会になっていました。

また子どもも自分たちの演じたものを見る機会はこれまでありませんでしたから、「自分たちでやったものが、こんなになっていたんだ!」という体験になります。これもきっと素敵なものです。予行練習のときに、お互いの劇などを鑑賞しあうことはあったのですが、自分たちのものを自分たちで見ることはありませんでした。

コロナ対策でやむなく編み出した方法ですが、このような子どもの姿を見ると、今回の上映方式の良い面を感じます。従来のお楽しみ会は1回きりです。保護者の方も、自分の子どもは舞台の上であり、一緒に見ることはできませんでした。できるとしたらビデオで撮ったものを家で一緒に見ることしかできなかったでしょう。楽しい体験を親子で共有することは幸せなことです。

それが今回の上映方式だと、やりやすかったかもしれません。私も従来の方法だと上演されている劇や合唱などの姿の方に注意を向け続けなければなりませんから、今回のように親御さんがどのように受け止めているかを拝見する機会はあまりありませんでした。そういう意味でも新しい発見があって楽しい時間になりました。

 

楽しい劇遊び「いいものを観た!?」

2020/12/02

もし毎日、保護者の方が読むといい日記があるとしたら、それは園長の日記ではなくて「ぼくの日記」「わたしの日記」です。ぼくは今日、こんなことが面白かったなあ、わたしはあれが楽しかった、あそこでこんな事したんだよ、そうしたらびっくりしたけど、○○ちゃんがこうしたから嬉しかった・・・こんな子ども目線の記録を読むことができたら、それにマサる保育記録はないかもしれません。

でも、それを読むと、心痛むことが描かれているかもしれません。「ぼくがあの時泣いたのは、悔しかったからじゃないのに、○○ちゃんは、わかってくれない、それが辛かったんだ、でも自分が悪いのもわかっていたけど、でも悪いのはぼくだけじゃなくて、だって先に始めたのは・・・」みたいな恨み節が描かれるかもしれません。

しかし、そんな記述がされることは、まず「ない」と言っていいでしょう。子どもは基本的には振り返らないのです、子どもには未来を見つめることの方が忙しいからです。すると、自分を振り返ることがないのなら、子どもが日記を書くなんてことは、そもそも期待できないことかもしれません。そういえば、昔は小学校で夏休みの日記なる宿題があり、毎日、それを書くのは苦痛だったことを思い出します。

もし、子どもが日記を書くことがあるとしたら、文学的素質に長けた子どもか、それとも未来が閉ざされているアンネ状態になっている時であり、それは発達の課題として深刻です。というわけで、とりあえず、子どもが書く理想の日記なるものはあり得ないという結論にしておきましょう。

それでも大人は子どもに1日を振り返えさせることがあります。その時、子どもはそのときに印象に残っていることを口にするものなのですが、今日はそれとはちょっと異なる発言を目撃しました。わいわいのKHちゃんが、他のクラスの劇遊びを見ることができて「嬉しかった」としみじみいうのです。それを私のそばで聞いたH先生によるとそれは「楽しかった、という意味だった」と翻訳してくれました。

今日12月2日に何があったのかというと、幼児はお楽しみ会で行う劇遊びをクラスごとに通しでやってみたのです。最初がわいわい組の「大きなかぶ」、その次がすいすい組の「エルマーの冒険」そして3番目にらんらん組の「ももたろう 」です。わいわい組の彼女は、その後のお兄さん、お姉さんたちの劇に心打たれたようです。少し大げさにいうと、今日は子どもたちは、観劇会を観たのと同じ経験をしたのです。劇遊びなるものの楽しさを味わうことができたとしたら、その経験は、きっと家族の人に話したくなるはずです。

「子どもは未来である」という言い方を私はよくするのですが、それは子どもの本質が未来に咲く花にとっての種のような状態だからであり、それとは反対に大人は、咲き終わった花であり、その種子や次世代へ命のバトンを渡すことに役割が移っていくので、どうしても過去を振り返るのでしょう。場合によっては前世まで振り返る大人もいますが、子どもにそのような関心や眼差しが生まれるはすがありません。

願わくば、私たち大人は、子どもが今日心動かされたことに共感できるといいのです。お楽しみ会の見方はそこに大きなポイントがあります。大人のために出来栄えのいい劇を演じることが目的ではありません。子どもにとって「楽しかったよ」「ほら、ここが楽しいんだよ、そこを観てね」というところに注目してあげましょう。どの子も、それをやることが楽しそうでしたよ。

自由について

2020/11/28

千代田区内のある保育園の先生たちが今日の午後、研修として園の見学にきました。見学後の質疑応答の中で、私は「相手を困らせたり物を壊したりしない限り、子どもは何をしても自由です」と説明したのですが、この「自由」について次のように補足説明をしました。

◆自由とは自立と自律ができること

自分の意思で自分の考えや行動を決定することができるとき、それを「自由がある」と言います。その自由の中身は、2つの要素からなりたります。1つは「自立」です。何かに依存して決定しているのではなく、思い描いた通りに決定できないと「自由である」とは言えません。自立の反対は「依存」です。依存状態の中での自分の意思でできることは限られています。赤ちゃんにはほとんど自由があるとは言えません。

自由の2つ目の要素は「自律」です。こちらの反対は「他律」です。大人や他の人から、「ああしなさい、こうしなさい」と指示されて何かを実行しても、それは自分が決めたことではないので「他律」になります。これも「自由がある」とは言えません。自分のことは自分で律することができて初めて自由であると言えるのです。

この2つのことを踏まえて、要領や指針の「人間関係」のねらいは「支え合って生活するために自立する」ことだと書かれています。

◆心も体も思い通りになたいという自由

身体を思い通りに動かすことができることを「運動遊び」では目的にしているのですが、それも身体の自由を獲得して欲しいからです。これと同様に、自分の内面世界を自分自身で創り上げていく「精神的自由」を獲得して欲しいと願っています。実際のところ、人は他人からあれこれと指図されることを本質的に拒みます。精神的な奴隷状態を自ら望む人はまずいないでしょう。

◆自らの志を持つ自由

さらに、ここからが面白いのですが、なぜか人は自分の所属する社会や世界をもっとよくしようとします。一生の間に何が自分の価値なのかを確かめようとするのですが、それは個人では完結しないのです。他者(社会や未来になって初めて明らかになる評価も含めて)との関係の中に自らを置いてみて、人生の目的を考えようとします。何によって貢献できるだろう、自分の人生にどんな意味があったのだろうと探るのです。人はそれを社会貢献と呼んだり、人生の志と呼んだりします。

◆乳幼児期は自由を獲得するたの基礎を培う時期

誕生から死ぬまでの一生を考えると、乳幼児期の生活と遊びは、自由を獲得するために必要な基礎を培っていることになります。選択肢は無限に用意することは不可能ですが(もともと人生も限りあるいくつかの中からの選択の連続なのですが)、何をして遊ぶか決める自由、無限にはない時間の中で順番を決める自由、何をどれくらい食べたいのか、いつまでその遊びを続けるか、あるいは選択肢の中に自分のやりたいことがないことに気づくこと、こうしたいと主張すること、意見をのべること・・・そうした営みの中で自立と協同性を育んでいます。

◆自由遊びの意味

自分のことを自分で決めるとき、他者との関係から自分の意思を相手に理解してもらう説明力が必要なことに気づいたり、相手の希望や願いに気づいて自分の欲求を我慢したりする必要があることを知ります。社会性です。そう考えると「自由遊び」はとても大切なことが含まれていることがわかります。先に自由遊びへの欲求があって、その葛藤を解決するためにコミュニケーションが不可欠であり、双方が納得できる解決策を見出すことが生まれます。

この営みは現実の社会そのものです。私たち大人が日々直面している会社の仕事や、自治体や国の意思決定にどのようにコミットしながら、それぞれの自由を尊重し合うかという民主主義の営みそのものです。精神的自由を認め合いながら、法の平等や経済的な友愛など社会的な公正を作り上げること。それが政治の役割です。ですから自由という理念が人間の基盤になければならないのだと思います。

 

話し合いは、何のためにあるのか?

2020/11/15

11月9日から14日まで、今週は毎日のように、いろいろな「会」が開かれました。保護者会が2回、職員会議が1回、クラス会議1回、防災会議1回、GT会議が1回、GTリーダー研修会が1回、そして昨日の研修会と、連日会議やミーティングや研修などが目白押しでした。それぞれが大切なものですが、これだけのことを話し合ったり、伝えあったり、考えを深めたりしながら「共有」することが「保育」という営みのために必要だということに、改めて驚きます。

情報が多すぎると消化不良を起こします。じっくりと自分のこと、ものにしていくことが大事です。何もごとも、しっかり消化して自分の血肉にしなければなりません。そのためには、自分が納得しながら物事を考えることです。そして使っていないと知識はなかったことと同じになります。忘れてしまうものです。しっかりと自分の引き出しに入り、自分の細胞になってしまえば、安心して忘れても構いません。必要な時に使えるようになります。しかし、ただ覚えていることは使う機会がないと消えてしまいます。どうしてかというと、脳の記憶の仕組みがそうなっているからです。海馬という部分に記憶される情報は何度も使う知識とつながっているものだけが残っていきます。

そういう意味で、きちんと振り返る人は強いでしょう。振り返る時に海馬への刻印が深まります。神経細胞(ニューロン)間の電気信号が何度も通過するからです。会議の内容を24時間以内に振り返って思い出せば、その再生したところの記憶の印象は強くなり、さらにその内容を人に語るとさらにシナプスの連結が強化されます。

これと同じことが、子どもの脳の中でも起きています。心動かされたこと(面白かった、楽しかった、美味しかった、嬉しかった、おかしかった・・などなど)は、もう一度味わいたいという衝動を脳は起動させます。それが子どもの再現衝動です。その子どもの姿が「模倣」だったり、「見立て」だったり、「ごっこ」だったり、お絵かきやブロック、積木だったりと、遊びの名前は違っていても本質は同じ、レプレゼンテーション(再現=表象)です。この時、脳内ではシナプス配線の強化が起きています。使わないシナプスの連合、しいては神経細胞が刈り取られていきます。それが発達です。

会議が多い方がいいのではなく、その会議の中身に、私たちが繰り返し考えて、世の中に実現させたい内容がどれくらいあるかどうかが大事です。同じように、子どもに何でも楽しいことをさせればいいのではなく、何度も味わうにたる質の遊びかどうかが大事です。量ではなく質という話は、脳の仕組み、頭をよくするためにも、身体を健康にするためにも大事な話ですね。

アメリカ大統領選挙の勝利演説でジョー・バイデン氏は「put away harsh rhetoric」 「人を傷つけるような言葉遣いはやめよう」と言いました(写真)。覚えておきたいフレーズです。今週の保護者会でもテーマになった事柄ですね。何度でも使いましょう。そして世界中に実現させたいものです。

親子運動遊びの会

2020/10/24

本日24日の親子運動遊びの会、いかがだったでしょうか。感染症対策上の、いろいろな制約がある中でしたが、ひとまずは開催できてよかったと、ほっとしています。時間も短く2部制という形でしたが、これまで園生活に取り入れてきたコンテンポラリーダンスのセンスを活かした<運動>の面白さを、少しでも親子、家族で共有できる機会になったとしたら嬉しいです。

会の中で青木尚哉さんもおっしゃっていましたが、頭の中でイメージしたものが身体表現になっていったとき、それは子ども一人ひとり異なっていました。自発的に生まれるその形は個性的で、その子らしいものになっていました。そこには意欲、楽しさ、恥ずかしさ、勇気、想像力などが混ざり合っていました。そうした心情は、やるたびに変わっていく姿も見られました。乳児にとっても、そばにそうした動きがあることは、とてもいい効果を生み出しそうです。

今日の運動を食事に例えるなら、今回のは高カロリーの「ガッツリ系」ではなく、体に良い「自然食」のような美食のように思われたかもしれません。子どもには「思い通りに自分の体を動かせるようにしてあげたい」と常々考えているのですが、それは「身体機能の発達」の話だけではないことにお気づきになったかもしれません。幼児の「ソロダンスステップ」には「美しく」「かっこよく」などの願いが表現されていましたよね。思い通りの「思い」には、美しく体を動かしたい、も含まれていました。

というわけで、身体の育ちの中には、強く、速く、遠くできる、などだけではなく「美しく」も加えておきましょう。その美は、意識=イメージから作り出されていくものだということも納得されます。そして、このような運動がどのように発達していくのかというと、その到達点のモデルを披露してくださいました。それが会の最後に、いずみさんとももかさんが踊ってくださったダンスです。

その美しさに私は感動しました。見ている大人も子どもも強く惹き込まれていました。今日のような運動を積み重ねていくと、このような身体につながっていくのだということがよくわかりました。子どもたちの身体表現のイメージも豊かになり「こんな風に表現してみたい」という目指す姿も豊かになっていくのでしょう。ダイエットでもファッションでもない身体そのものの美であり、動きを生み出すイメージの美でした。みごでしたね。

行事は全てそうですが、親子運動遊びの会も結果ではなく通過点です。保育園生活では今後も「身体にとっての美とは何か」の探究を続けていくつもりです。

ジレンマを抱えていることの専門性とは

2020/10/21

先週から今週にかけて、園の先生たちと少し深い話をすることが続いています。保育の話ですが、テーマは色々です。それでも個々の話題の背景にあって、共通していることがあります。それは「子ども主体の保育」における「先生が抱える葛藤」です。平たくいう、仕事の悩みです。結論から言うと、保育に悩みは付きものであり、悩みのない保育はありません。保育が楽しいに越したことはないのですがそれでも、その楽しさは「味わい深いもの」であって、単にファン(楽しさ)であるという意味ではありません。苦労もあり、悩みもあり、葛藤もある上での楽しさです。

毎月届く雑誌や広告の中に、子育てや保育を、まるで魔法かマジックのように「こうすればうまくいく」みたいなノウハウを紹介しているものがありました。それを読んでいて、「これは保育とはいえないな」と思いました。高い専門性を持った保育者ほど、意味のあるジレンマを抱えているものです。真っ白な洗い立てのワイシャツのように、眩しい白さしか感じない保育者ほど、子ども理解は浅くテクニックに走っていたりします。そんな風に感じる保育は、大抵が保育者主体の保育なのです。

しかし一旦、子ども主体の保育を目指してやり始めたら、子どもの多様性や不可解さを前にして、そんなマジックのようなわかりやすさが通用しないことはすぐにわかります。子どもも人間である以上、情緒の海の中で呼吸しており、彼ら彼女らも自分でも計り知れないところから湧き立つ欲求に突き動かされるようにして生きています。その心の声と対話しながら傍に立つのが保育者であり、何人もを前にして大きな声で語ったり、分からせたりことが保育ではありません。それは理解していても、なかなかそうできない状況で事を進めざるを得ないジレンマがつきまといます。

個々との会話と心の通い合いからしか、保育は成立しないものです。しかも一人ひとりの心としっかり向き合うことがスタート地点です。子ども一人ひとりに向かって「あたたは本当は何をしたいのだろう」という、子どもの願い(本人も自覚していないことが多い)を知ろうとすることが、保育の起点になるのです。大人がやってほしいことを言って聞かせて、子どもができたり、できなかったりすることを、保育の成果と勘違いしてはいけません。それは大人主体の上辺だけの結果でしかありません。子どもが自ら歩き出し、そして切り開く世界が育ちです。その世界を自ら歩いた足跡だけが本物の育ちだからです。

例えば、わらすの昨日20日のブログ「やりたい」をご覧ください。「やりた〜い、の意欲はどんな理由があるのかな?」と問うています。この分からなさを抱えて進むのが保育におけるジレンマです。「わからないってことが、その子らしさ、それぞれの力ということなんでしょう」。この実践的な告白に保育の真があるのです。

こんな「子ども観」や「保育観」がベースにないと、見せかけの成果に目を奪われてしまい、心の育ちが見えなくなってしまうでしょう。自分らしく生きて行くことができるように、一人ひとりの子どもの持っている可能性を最大限引き出すこと。そのために何が必要なのか、改めて保護者のみなさんと共有しておきたいと思います。11月に保護者会をクラス別に開こうと計画中です。

top