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園長の日記

子どもにしかできない「分かり方」

2020/10/04

子どもは知識に貪欲である!これははっきりしているのですが、案外、保育界は誤った心情主義が蔓延っていて、そのニーズに答え切れていないのではないだろうか? そんなことを感じるのは、子どもと絵本を楽しんでいるときです。しかも絵本が「クイズ」や「なぞなぞ」や「図鑑」だったりするとき、それをとても感じます。子どもは、いろんなことを知りたがっているんです。

昨日3日(土)の午後、園児と2時間ほど絵本を読んだり、どんぐりで人形を作ったりして過ごしました。月刊のなぞなぞ本を、4ヶ月分ほど一気に読みました。何度か読んでいることがわかるのは、3択のクイズの答えをほとんど正解するからです。その時期に目にしそうな季節の植物や昆虫や鳥などが、どうしてそうするのか、3つの回答から正解を選ぶのですが、どうしてそうなのかを知りたがります。こういう「知りたがり」の気持ちは、ずっと持ち続けて欲しいものです。

そこでこう思うのです。大人になると、何かを知ることが、何かの役に立ったり、他人のためになったり、一貫した見方が面白く思えたり、美しく感じたりというように「善さ」の4要素を感じないと意味を感じなくなるのですが、子どもは違います。知ること自体が面白いんだろうと感じます。

大人は子どもの頃の感じ方や世界の見え方を忘れてしまっているのですが、そのことを、思い起こさせてくれる話があります。昔から伝えてられてきた分かりやすい例です。それは大人になると見えないけれど「子どもだけが見える」世界です。例えば、アニメの『となりのトトロ』だったら、まっくろすけやネコバスは子どもにしか見えません。映画『E.T.』だったら、エリオット(ヘンリー・トーマス)には宇宙人の気持ちがわかります。そんなふうに、大人になるとわからなくなってしまう「子どもの世界」があるのです。

子どもには子どもにしか見えない世界があるんだと想像すること、大人には見えなくなってしまっている子どもの世界があるんだと思うこと。それも「子どもを信じる」という、大切なことなのだろうと思います。

 

子どもが自分で感じて、考えて、決めることを大切に

2020/06/29

 

園だより7月号 巻頭言より

◆保育で大事にしていること

新しく入園した方もいるので、当園の保育方針の話を少ししましょう。園が大事にしている保育は、大人が子どもに言葉で言ってさせる保育の真反対です。自分でやろうとしてやれるようになる自立を目指します。やれない時は人に頼んだり、どうしたらやりたいことができるかを聞いてくるような子どもになって欲しいと思っています。

◆元園長「自律できる子を育てたかった」

昔、大阪の公立の元保育園長から次のような話を聞いたことがあります。「トイレにいく時間だよ、手を洗いなさい、静かにしなさいと、言って育てた子どもたちが小学校や学童に行ったらお漏らしをしたり、手洗いを忘れたり、人の話を聞けない子になってしまいました。自分で行きたくなったらトイレに行く、気持ち悪いから手を洗う(手を洗うとさっぱりして気持ちいいからやる)、うるさいと大切なことが聞こえないから静かに聞く、そうした自律(反対は他律)を育ててあげないと、困るのは本人なのです」という話です。全くその通りです。目に見える行動面ばかりではなく、子どもの精神面にも同じことが言えます。子どもが自分の考えを持ち、それを人に伝え、決定する力を育むことは、子どもの人権を守ることと等しいと私は考えています。

◆自分で感じて考える体験を

大人が望む行動ばかりを口やかましく言って聞かせることを繰り返していたら、子どもは自分でやるという体験ができなくなってしまいます。自分が自分で心に決めること。やりたいことを自力でやってみて、その結果を正面から見つめ、責任感を感じること。自分が原因で物事が変わる経験をすること。こうしたことには、うまくいかないことや失敗がつきものです。しかし自分で決めてやったことは、人のせいにできないので、自分を知る経験になっていくのです。「だから言ったでしょ」という思考は禁物です。実際に自分で経験して考えることが大事なのですから。この経験が希薄な子どもたちが多くなっているように感じます。可愛さゆえの大人の過干渉です。子どもに感じて、考え、迷い、揺れ動く幅を大きくとってあげてください。そのレンジが大きければ大きいほど、大きな成長を見せてくれます。

◆自分のことは自分で決める

この自由度が少ないと、子どもは自分で決めたいことを求めて、いうことを聞かない、返事をしない、大人が困ることをする、という反応パターンに嵌っていきます。また、それを否定されるともっとやります。これでは悪循環です。子どもが「自分でこうしてみた、そしたらこうなった、だから次はこうしてみたい」という好循環を作り出すには、大人は子どもが自分の力で自ら歩き始めるように、子どもを信じてじっと待つ、という子育ての構えを持つ必要があります。

◆子どもができることを信じましょう

子どもが自分で考えて、自分で行動に移していく過程をこそ、一緒に育てましょう。言って聞かせてできるようになるのは「他律」です。そうではなく、自分のことは自分で判断して適切な行動が選択できる、自律した姿を目指しましょう。そのための第一歩は子どもを丸ごと信じることから始まります。良いこと悪いことの決まりは伝えながらも、自分で決めて判断して行動に移せるように支えていきましょう。

社会の中で意思決定できる力を育てる

2020/06/20

6月からの園再開から3週間が経ちます。新しい生活様式の中での保育を考えるとき、子ども同士の関係が分断されないかと心配でしたが、乳幼児の感染リスクが少ないことがわかって、これまで大切にしてきた保育スタイルを大きく変更することなく、継続できることにほっとしています。写真は、幼児クラスで、朝、何をして過ごそうかな?と遊びのゾーンを選んでいるところですが、「何もしなくない」というのを「選ぶ」こともできます。あるいは、既存のゾーンだけでは収まらない活動ももちろんあるので、そういう発展的な活動を提案してくる子供もいます。そうした主張は意思決定力であり、他者との関わりのなかで育っていく大切な能力です。

当園の保育方針は「自分らしく意欲的で思いやりのある子ども」です。前半の「自分らしく意欲的で」というのは自由意志を育むテーマであるともいえます。また後半の「思いやりのある」というのは責任のテーマでもあります。その営みは、数日前の日記でお伝えしたように、赤ちゃんの頃から自由な選択行動や他者への配慮が見られます。このような関係発達が人の発達の基盤にあることをいかに守り抜くか、それがこれからの「新しい生活様式」の中での、日本の保育界、教育界の大きな課題だと考えています。

数日前の日記で、意識していないのに思わず真似をしながら遊んでいる中で、周りの文化を取り入れているものがあることを書きました。何でもやりたがる「自分で」という意志が強まる2歳ごろ、そして「僕はね」「私がね」と一人称を使い始め、自意識がはっきりしていく幼児の頃、そして小学生、中学生となっていく過程で、もう一度自分のアイデンティティーを確立しようとする時期がきます。思春期です。その頃の基盤が乳幼児の時期の経験が大切だということは、発達を学ぶと必ず出てくるものです。

教育や保育の勉強すると、最初の頃に「発達の意味」を考える科目と出合います。成長とか発達には、どんな価値があるかというテーマです。発達に良いとか悪いとかがあるのか。何を持ってそう判断できるのか。かなり重いテーマです。ですから議論はすぐに教育哲学のテーマになります。その中で必ず検討することになるのが、「自由」をめぐる価値判断です。簡単にいうと「赤ちゃんは自由が不自由か?あなたはどう思うか?」というものです。

人はどんな生き方をしても、それは確かに自由なのですが、自由の一般的な定義は、自分の意思でそれを決める、という自己決定の原理です。哲学の議論を遡ると、自由に決めたと本人が思っていても、それは生理的・社会的な欲求に突き動かされているだけであり、決して自分で決めたのではないのではないか、という決定論を乗り越えてきた歴史があります。したがって赤ちゃんは幼少の頃はまだ自分が本当に望んでいることを自由に決定しているのではないから、大人に比べて自由が少ないと考えられています。

そうだとしたら、いつ頃から「自分で決めること」が「自由に生きること」と一致してくるのでしょうか。それは「望ましいことを選べる自由選択の力」を獲得できるまでです。その社会が求めてきます。いわゆる「人に迷惑をかけないことを判断できる力」です。よく自由と責任の話になります。その発達の境目が「子ども」と「大人」の違いだとすると、児童福祉法は18歳ですし、選挙権を持つのも18歳になりました。自分がとった行動に社会的責任が発生するという形で、民主主義社会の法治国家は、そのバランスに一貫性を持たせています。

しかし、大人になって、その自由意思に基づいて行動していると本人も思っていても、実は幼少の頃の経験が、その後の可能性に大きな制約をもたらしていることも事実なのです。保育は子どもが大人になっていくスタート時点に関わるので、その子どもに待っている潜在的な力が十分に発揮できるような環境にしておくことを、私たちは意識して大切にしています。

保育の質を高める場所は感覚の入り口に

2020/06/19


年度の初めには、新しく園生活を始める方のために当園での生活や保育の方針を説明するようにしているのですが、今年はその話をする機会が6月になってしまいましたね。子どもたちの健康状態は17日(水)の全園児健康診断で問題がないことがわかりました。健康診断は国の基準によって実施が義務化されていて、日本の認可保育園はそれを実施しなければなりません。親が自分の子どもは健康だと思っていても、医師が見れば異常が見つかることがよくあるからです。定期的な健診は子どもにとっては、とても大事です。

長い閉園で子どもたちの心身の状態が心配でしたが、夏の水遊びを前に、予めその状態を確認することができました。ちなみに新型コロナウイルスは塩素に弱いので、プールの中で感染することはありません。毎年のことですが、水に触れたり紫外線に当たることが多い夏は、それへの配慮も大切です。当園はプールを使いますが、水泳をするつもりはありません。あくまでも暑い夏をいかに涼しく過ごすか、「涼を取る」という意味が大きいのです。水との上手な付き合い方や水の特性を知ることです。

昨日18日(木)は、避難訓練も行い、神田川の向かいの「佐久間橋児童遊園」まで避難の練習をしました。東京都は避難訓練と消火訓練を毎月実施しなければなりません。避難訓練は地震と火災によって避難パターンを変えています。いずれにしても火災が発生して避難する想定なのですが、身の安全を確保する行動に普段から慣れておくことが、いざというときに不要に怖がったり慌てたりしないですみます。避難階段を普段から使うことも重要な生活の一部です。

今日19日(金)は6月の誕生会でした。2階と3階のフロアを使って開催しました。2階のダイニングエリアを誕生会のメイン会場にして、今回はわいわい組が3階にいて参加しました。参観を希望される方はお申し出ください。ただし、新型コロナウイルス対策として、保育園内への参加は、普段一緒に家庭で生活しているご家族の方だけにしていただいています。

午後からは、子どもの咀嚼を研究されている管理栄養士の方と、離乳後の1歳半から3歳ごろまでの時期の「食育」の大切さを確認しました。どんな食材や調理方法、食べ方などが好ましいのか、その研究に協力することにしました。咀嚼というと、いかにもピンポイントなテーマのように思われがちですが、口腔での舌、上顎、下顎、まだ歯がない歯槽底の刺激、など色々な動きができるようになっておくことがとても大事です。その発達にも敏感期があることがわかっています。その時期の「咀嚼力」は、その後の食の基盤になってくる大切ものなのです。また子どもによって、感覚器の感受性は大きく異なります。見ること、聞くこと、味わうこと、匂うこと、触ることにも敏感な子から鈍感な子まで、色々です。咀嚼は口腔内の運動と言われるように、見ること以外の感覚が総動員されています。ただ味の問題だけではありません。その体験の質を向上させてあげるための環境とは何か、働きかけはどうしたらいいか、そこが保育の質になります。

見守る優しさを物語る右手の指の「コンコン」

2020/06/15

赤ちゃんは1歳7か月にもなると、こんな気遣いができるのかと、感動した15日(月)の朝。お集まりで先生が一人ひとりの名前を呼んでいると、Yちゃんはサッと手をあげてにっこり。その直後、右隣に座っていた1歳4か月のMちゃんの名前が呼ばれました。するとYちゃんは「ほら、名前を呼ばれたよ、手をあげたら」とばかりにMちゃんの腕を上げさせよとします。しかしMちゃんは、その気がないようなので、促されません。Yちゃんは、せっかく教えてあげているのに、手をあげようとしないMちゃんの左手をそっと離し、でも離した手の指だけは、Mちゃんの手の甲を優しくちょんちょんと触っていて、まるでその手が見守ってあげているような仕草なのです。言葉だけで説明するのは難しいのですが、その仕草の優しいこと。ああ、こんな風に人の気持ちというのは伝わっていくのだなあ、と感心しました。わらすのブログに心の窓の話が出ていましたが、心が通うというのは、たった右手1つの動きの中ででも饒舌に物語ることができるということに気付かされたのでした。

コロナ時代でも保育で変えてはならないもの

2020/05/28

(園だより6月号 巻頭言より)

6月1日から保育園が再開します。25日からの登園準備保育(慣れ保育)で、久しぶりにお会いした方も多かったのですが、皆さん元気に過ごされたようで、ホッとしました。子どもたちも、一旦園生活に戻ってきてくれれば、すぐに元気に飛び跳ねて遊んでくれました。休園であっても、皆さんと少しでも繋がっていたくて、オンライン保育園で「つなぐ・つながるプロジェクト」を実践してみましたが、いかがだったでしょうか。保育園へのスムーズな登園に、ちょっぴりでもお役に立てたのなら嬉しいです。

この約2か月に及ぶ休園の原因である「コロナウイルス禍」によって、失うものも大きく、その影響はこれからも続くわけですが、その一方で「家で子どもと一緒に過ごせていい時間でした」という方や「仕事と子育てが一緒で大変でしたが、こんな経験は滅多にできないから、前向きに頑張りました」という方もいらっしゃって、それぞれのご家庭によって、自粛生活もいろいろだったんだなあ、と思えば当たり前のことに気づかされる今週でした。

日本も世界も大きな傷を負ったわけですが、今なお続くこの渦中にあって、返って「大切なものに気づくことができた」という話もよく聞くようになりました。緊急事態宣言が解除されても「以前と同じ生活には戻れない」「新しい生活様式が始まる」と言われます。これからは、人と人がマスクで遮られ、どこでも物理的な距離をとる生活が続くのだといいます。

ところが、それを保育に当てはめて考えると、変える必要があるものと、どんなに時代が変わっても、保育で変えてはならないものを、しっかりと見極めていくことも大事です。その一つが「子ども同士の関わりの中で育つものをなくさない」ということです。子ども同士の関わりで象徴的な言葉あります。それは「アタッチメント」です。日本語では愛着と訳されますが、本来は「くっつく」という意味です。子どもと子どもがくっつくこと。群れること。肌と肌が触れ合うこと。抱っこすること。先生の膝の上で安心を取り戻すこと。こうした「くっつくこと」ができなくなったら、もはや保育ではありません。

新しい生活様式になっても、子どもが育つために必要な条件まで、変えてしまっていけません。大人と大人がマスクによって、仮に隔てられた感じがしたとしても、心が通じ合うことまでなくしてはいけません。そこを決して見失わないようにしたいと思っています。

令和2年度の保育カリキュラム

2020/04/01

令和2年度の保育カリキュラムは次の通りです。

令和2年度 全体的な計画(教育課程含む)(千代田せいが保育園)

重点目標は次の通り

•○ 都市型の保育→ 音環境・プライバシー・交通安全
•○ 感染症対策・自然災害(水害)対策
•○ 園庭の3要素(運動・自然・開放感)→ 地域を園庭として利用する 地域連携
•○ 子どもの発達の連続性(学年で区切らない保育)→ オープン保育
•○ 家庭と園生活の連続性(アロペアレンティング)→ 保育の協働性 信頼と対話
•○ 保護者と共に子どもにとって豊かな生活を創り出す → 身体・睡眠・アート

 

自分を見つめ出した子どもたち

2019/10/31

今朝31日、IKくんの訴えに感動しました。彼は私に“こうしたらどうか”と具体的な方策を提案してきたのです。やる前にルールを読む。読めない子には読んであげる。低いところからでも読めるように下にも掲示する。だから「園長先生、クライミングやりたい。クライミングゾーンを開けて」と言ってきたのです。

実は、子どもの態度を見ながら運動ゾーンの運用と環境を見直すことにしました。きっかけは、今週火曜日の夕方に子ども同士で頭をぶつけてしまったからです。翌日話し合い、波型遊具とスイング遊具を一緒に使わないで、子どもにとって死角がないようにしました。また子どもたちにも、4つのルールがしっかりと伝わるようにして、それを「自ら守ろうとする姿勢」を育むことに、さらに力を入れることにしたのです。

わらすの先生たちには、子どもたちに昨日の夕方、それをしっかり伝えてもらいました。すると今朝、ちゃんと決まりを守って遊ぶから、ゾーンを開いて欲しいと、IKくんが私に交渉しにきたのです。

このような力を「非認知的スキル」と言います。自分なりに課題を解決するためにどうしたらいいかをしっかりと考えることができ、それを相手に話して伝え、しかも相手が(私が)納得できるような論理を持っているのです。これは、すでに年長さんの姿に近い「育ち」がしっかりと見られます。

昨日の先生たちによる子どもたちへの話が功を奏したは間違いありませんが、それをしっかりと受け止めて、「どうやったら、運動ゾーンをもう一度開くことができるか」を真剣に考えてきたことは素晴らしいと思います。

その訴えを聞いて、私がわらすの先生たちに「IKくんがこう言ってきたから、ゾーンをもう一度再開してあげることにしませんか」と提案して、再開しました。

このような子どもたちの「姿」のことを、本当の意味で、心構えができている態度と言います。真剣な気持ちを持った心情、どうしても運動ゾーンを開いて遊びたいという意欲、そして自分を律していく態度。この心情、意欲、態度の育ちのことを文部科学省は「生きる力」と呼び、非認知的能力として、社会で最も必要な力になると考えているのです。

 

発達に必要な子ども同士の体験

2019/10/21

◆お手伝いって、楽しい

10月になって、わいわい組(3歳)とらんらん組(4歳)の子が、ちっち組(0歳)やぐんぐん組(1歳)で一緒に生活する時間が増えています。今日もらんらんのTAくんが夕方、事務室にいる私に「お手伝いしているんだよ」と嬉しそうに教えてくれます。「楽しい?」と聞くと、「うん」と笑顔で答えてくれます。自分でそれを選んで過ごしています。

その様子が、ここ数日、ぐんぐん組(18日素敵な時間)、わらす組(20日自分の生活を作ってみる)、ちっち組(21日お手伝い保育へようこそ)のブログで報告されています。「お手伝い保育」という言葉は、私たち省我会の保育園で古くから使っている言葉です。子どもが先生の保育のお手伝いをしている、という意味ではなく、小さい子どものやりたいことを手伝ってあげるという、「子どもの、子どものための、子どもによるサポート」のことを指します。まさしく子ども同士の関係です。

◆やってもらう、やってあげる

小さい子どもが大きな子どもに「やってもらう」「教えてもらう」「分けてもらう」といったことを「してらもう」わけですが、満1〜2歳と4〜5歳の差があると、その関係が逆転することはまずありません。兄弟関係はだいたいこのくらいの差があることが多いでしょう。子ども同士の関係ですが、同等の関係(水平方向)ではなく、まさしく兄弟姉妹のような関係(上下関係)が生活の中に生まれることになります。

ただ、小林先生が20日のブログで、この活動が「生活を作る」活動になっていることを指摘しているように、この活動は、ちっち組やぐんぐん組での活動とだけとらえるのではなく、園全体から俯瞰すると、自分が過ごしたい場所を選択して過ごすことができる「オープン保育」という保育形態になっていることも見逃せません。

 

また、この活動は21日のちっち組のブログにあるように「年上の子どもたちの姿そのものが、知らず知らずのうちに “成長や学びの『お手伝い』”にもなっている」のです。発達が少し上の子どものやることは、子どもにとっては、やってみたい!と思えるちょうどいい刺激になります。

 

◆発達がちょっと上か下か

この場合、ちょっと上、ちょっと先であること大切で、それ以上の離れた大きな発達の差になってしまうと、小さい子どもにとっては「遠い存在」でしかありません。視野に入ってこないでしょう。

子どもの思いを想像すると<あ、やってみたい。どうやったら、ああなるんだろいう。僕はこうしていたけど、ああしたら、こんなこともできちゃうのか、ああ、やってみたい!>という感じでしょうか。

こうしたことを「異年齢児保育」と呼ぶことがありますが、この言葉は誤解を招きやすいので、あまり使いたくありません。「学年」を跨ぐか跨がないかの違いしかないからです。12ヶ月離れている同学年の4月生まれと3月生まれが一緒にいても「同年齢保育」と呼ばれ、1ヶ月しか離れていない学年の違う3月生まれと4月生まれが一緒にいると「異年齢保育」と呼ばれます。ですから、学年が混ざるか混ざらないかで言い方が変わるような言葉は誤解を生みやすいのです。

 

◆発達が豊かになる関係

そんなことよりも、「発達の差が大きい子ども同士の関係」で起きる関わりや刺激、「発達の差があまりない関係」で起きる関わりや刺激が、どの子にも必要ですね、という話です。それが経験に幅がある生活、豊かな生活に繋がるからです。生活の幅が豊かになるのです。

実生活を考えてみてください。同じ学年だけの人間だけで生活なんかしていません。家族も会社も地域も年齢が異なるのが当たり前です。それが不自然になってしまうのが、日本の学校空間だけです。学年で仕切られます。実は人が何かを学び、それを分かち合い、共有していくことが人間本来の営みです。しかし学校は個人をバラバラにしておいて、しかも、お節介なことに、それぞれの能力を一定の「ものさし」で評価しようとします。産業革命以降に雇用労働者が発明されてから、学校は個人の能力を一元的に測定する役割をもっぱら担うことになってしまいました。

 

◆大人はまだよく知らないかもしれない、子ども同士の関係

お手伝い保育。その名称はともかく、大事なことは、人間は誰でも差別されず持って生まれたかけがえのない生命を発揮しながら生きる権利があること。その人が生きている周りには、多様な人がいるからこそ、その中でそれぞれの人が輝くこと。輝き方はそれぞれでいい。輝く必要もないかもしれない。そいうことが起きているのが、実は子ども同士の関係だということ。大人はまだまだ、子ども同士の関係の面白さを知らないのではないでしょうか。

アンガー(怒り)のコントロール

2019/08/20

わいわいとらんらんの遊びの様子を見ていると、こんなことに気づきます。以下は特定の子ではありません。どの子にも当てはまる特徴だと思ってください。

◆謝りたくない気持ちとは?

例えばAくんの手がぶつかって「イタッ」と思ったBくんが「痛い」と相手Aくんに訴えます。ぶつけた方のAくんが、その訴えに気づいて「ごめん」と謝ってBくんが「いいよ」となれば、仲直り成立で、また遊び始めます。ところが、Bくんが「痛い」と訴えても、Aくんが謝ってくれないときがあります。Aくんがそれに気づかないときもありますが、知っていても、ぶつけたことは「自分が悪くない」と考えて謝らないこともあります。その言い分をよーく聞くと、大抵は次の2つの「論理」がみられます。

そんなとき、ぶつけたAくんのような立場の子がいう理由でよく聞くのは「先にBくんが◯◯したから」というものや「わざとじゃない」というものです。話は長く複雑ですが、核心を要約するとそうなります。
◆先にやったのは自分じゃない
これは典型的な2つの正当化理論といえます。最初の理屈は「先に痛い目にあったのは僕の方で、そのときは見逃してあげたんだから、君だって文句言わず、それくらい我慢しなよ」という考え方です。「被害はお互い様なんだから、僕だけ謝ったら不公平だ」という気持ちがあります。この被った害の量が同じなら公正であるという感覚が、子どもたちには歴然とあります。やられたから、やり返すというのは動物もやります。
◆いまさら言われても・・
しかし、やっかいなのは、いま「痛かった、無視しないで、ちゃんと謝ってよ」と訴えるBくんにとっては、最初のことは自覚がないか、もう過去のこととして終わっている場合があって、「いまさら、そんなこと蒸し返されても」と感じる場合と「ああ、確かにそうかも」と思い出す場合があります。ただ、大抵は「今のこの痛さをなんとかしてよ」の気持ちの方が切実なので、素直にイーブンであると受け入れることは、まずありません。
◆わざとやったんじゃない
2つ目の理由「わざとじゃない」も、強力な理論です。子どもは9ヶ月ごろから人は「意図」をもつ存在であることが分かるようになります。意図してやったことは、より悪いとわかっています。なので「わざとじゃないもん」が、「自分は悪くない」とほぼ同じように使われてしまいます。意図したことか、それとも過失なのかで罪の軽重が変わるのは、大人社会の罪と罰の関係も同じです。
◆ハムリンの実験
最初の「先にやったのは自分じゃない」という憤慨は「よくないのはこっち」という判断に基づいており、1歳未満の赤ちゃんもできることが、わかっています。このホモ・サピエンスの強力な倫理観は先天的なのもです。この分野の研究で先鞭をつけた有名な研究者がハムリンです。次の動画をご覧ください。ちょっと脇道にそれますが、面白いのでみてください。協力的であることへ、赤ちゃんは共感します。
◆アンガー・マネジメント
 このような感情の噴出と鎮静を繰り返しながら、この子たちは、良心との葛藤を経ながら、倫理を学んでいます。どのように言えば、分かってもらえるか、どのように言われたら許そうと思えるか、そのような経験を子ども同士の中で繰り返しながら、感情のコントロールを学び続けています。とくに子ども同士のけんかは、怒り(アンガー)をコントロールする練習です。その正義の怒りを、自分の中の暴力に転化させず、ほかのエネルギーに昇華させることを学んでいく必要があります。この感情に負ける大人の犯罪が増えているのは、幼児期の自由遊びが足りなかったのでしょう。人は生まれたときから道徳的ですが、現代の社会では、子ども同士の関係がなくなり、子ども社会で育つ機会が奪われてしまっているのです。
◆私たちがやるべきこと
私たち保育士は、いざこざの中でどっちがいいか悪いかをジャッジして、謝らせることを優先しません。お互いの気持ちがすれ違っていて、子ども同士のやりとりだけでは手が出てしまうようなときは止めに入ります。気持ちや、考えをわかり合うためのサポートが必要なときは例えば「ホントはこうしたかったんだって」などと、お互いの気持ちや考えを代弁します。また言葉で伝え合う力があるなら、ピーステーブルに促したりして、考えを伝え合う機会を保障します。子どもが自分の感情を味わい、自らの内面からそれに打ち克つ時間を待つ必要があります。そして必要な時間は、個人差があります。
◆自律を育てる
できないところは助け、できるところは自分でやれるように援助します。自分でできるようにと言うのは、言われて謝れるのではなく、自分から悪かったなぁと思えるような心を育てることです。「ごめんね」と形だけ言えることではなく、仮にバツが悪くて言えなくとも心から「ああ、悪かったな」と思えることが大事です。形だけの行動よりも、相手をいたわったり、優しい心情が豊かなら、行動はついてくるものだからです。無理に謝らせても、自分から謝罪できる勇気や気概も育ちようがありません。反対に、いろいろなことを言って外からの働きかけでそのタイミングで「させて」いると、その働きかけがなくなると、やらなくなります。それは自律ではなく他律だからです。
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