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保育アーカイブ

保護者主催の「子どもが幸せに生きていくヒントを見つけよう」

2024/02/17

今日17日午前中は姉妹園の「新宿せいが子ども園」で、その保護者と卒園家庭からなる「落四小学校区域の学童クラブを考える会」(代表・渡辺仁子)が開いたイベント「子どもが幸せに生きていくヒントを見つけよう」に参加しました。

まず「保育園を考える保護者の会」代表の渡辺寛子さんから、こども家庭庁の「幼児期までのこどもの育ちに係る基本的なビジョン(はじめの100か月の育ちビジョン)」が紹介されました。渡辺さんはその会合の委員でもあり「これから出されてくる色々な政策の大元はこの5つのビジョンに基づいているのになるでしょう」と。

続いて紹介された、この会に参加している方に事前にとったアンケート「子どもが大人に言われて・されて嫌だったこと」と「大人が子どもの時に言われて・されて嫌だったこと」の結果からは、本人からすると大人が過干渉になっている傾向が見られました。

それらを受けて、いわゆる「見守る保育」については、藤森平司園長から乳児保育における保護者の関わり方の話が、また元ソニー開発マネージャーで『パパだからデキる子育て術』の著者である鬼木一直・東京富士大学教授からは、見守る保育の意味についてのミニ講演がなされました(録画)。

さらに脳科学者でもある一人の保護者からの話題提供もあり、盛りだくさんの内容を踏まえてのグループディスカッションは熱のこもったものとなりました。

このイベントは、主催している会の名前から想像できるように、卒園したあとの学童のあり方を考える会ではあるのですが、子どもが幸せであるために、学校の在り方や学びのあり方も考えていこうという趣旨の内容になっています。就学前の学びと就学後の学びをつなぐ活動のあり方として、保育と学童の連続性を考えるための、いい機会になりました。

 

GT全国実践研究大会 初日

2024/02/03

保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が主催する全国大会のために長崎市に来ています。初日の今日3日(土)は、午前中は施設見学(8ヶ所の保育園・こども園から選択)で、午後は藤森代表の基調講演と、菌ちゃん農法で有名な吉田俊道さんの記念講演でした。

基調講演では、いわゆる「見守る保育・藤森メソッド」の4つの特徴について、改めて説明されたのですが、新しいトピックスとしては「子ども同士のかかわりを大切にした保育」の中で、社会が狩猟採集社会から現代の情報社会に至るまでの変化(Society5.0へ向かう議論の中で)の中に、変わらないものがあって、それが「助け合う力」であることが紹介されました。また、5つ目の特徴として新たに「園庭」について取り上げられました。

九大農学部大学院修士課程を修了後、長崎県庁の農業改良普及員をしてきた吉田さんは、1996年に退職して佐世保市で「株式会社菌ちゃんふぁーむ」を経営しながら有機農業を始めます。最新刊の「微生物の力だけで奇跡の野菜づくり 図解でよくわかる菌ちゃん農法」によると、1999年に「大地といのちの会」を立ち上げ、生ごみや枯葉などで菌のいる土地を作って、野菜を育てる方法について、理事長として全国で講演をしています。

一番驚いたのは、肥料も農薬も一切使わないのに虫がつかないことです。本当に元気な野菜には抗酸化物質やビタミンCなどが豊富で、虫も食べることができないのだそうで、そういう野菜になる秘訣は「菌ちゃん」が豊富な土作りにあるとのこと。ぜひ、保育園でもやってみたいと思います。

 

他園のお友達と仲よくなりたい気持ちが膨らんで

2023/12/04

今日のクラスブログと重複しますが、以下に紹介します。

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そんな今日は、神田公園に行くと、神田ベアーズ保育園 さんが..!この園も合同子ども会のバスが一緒だったのですが、子どもたちに「バス一緒だった園のお友だちだね〜!」と伝えてみると、「せんせい、しゃべってみて〜」とMちゃん😂 (お友だちになりたいけど、少し恥ずかしい.. とのこと )で、私が神田ベアーズのお友だちに話しかけてみると、来年から千代田小に行くということ!「一緒だ〜!」と少し照れながらも名前を伝え合っていました😂そこからもお互いに気にしながら近くに行ってみたり、少し話したり、、先生たちともお話して、「また公園で会ったら遊ぼうね〜!」とバイバイしました!いい出会いでした〜!

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先月の合同子ども会をきっかけに、年長児は他の園の子どもたちとの触れ合いをもとめるようになってきたようです。今日は午後、ある保育園と交流する予定だったのですが、先方がインフルエンザが流行しているという理由で見合わせることになりました。でも、午前中に出かけた別の公園で、他の保育園の子どもたちとの交流が生まれました。

<・・新たな公園にとても新鮮さを感じながら、探索したり、遊具で遊んだりと伸び伸び健やかに過ごす中で、他園のお友達と仲よくなりたい気持ちのMちゃんの姿がありました。なかなか羞恥心からか、踏み込むことができず、保育者の手をかりながら関わっていく姿がとても印象的だった。小学校就学にあたり、自園の子と離れ離れになってしまう子もいる中で、戸外活動を通して、他園児と触れ合う機会にとても意義を感じる場面を垣間見ることができた。・・・>

 

お友達と仲良くなりたいという気持ちが膨らんでいるのですね。年長児は小学校が複数に分かれますが、それぞれの近くに公園もあるので、そこでの戸外活動から自然と交流が生まれています。新しい友達ができていく体験も就学にむけた連続性になっていくことでしょう。

子どもにとっての同僚性という環境

2023/11/14

研修会の二日目(14日)は、高田馬場の研修会場で藤森代表の講義、実践発表、質疑応答です。テーマは「チーム保育」です。今年3回目の保育環境セミナーの総まとめになります。藤森代表の講義は「ヒトという環境 子どもにとっての環境 同僚性としての環境」という内容でした。チーム保育というのは、かなり前から提案されているものなのですが、私たちの保育グループでは次のように考えています。この考え方は、保育学用語辞典にも載っているので、そのまま引用してみましょう。

「習熟した保育者が、初任期の保育者とともに複数でチームを形成して保育にあたる体制。(省略) 藤森はチーム保育について、役割分担をしてともに保育することと定義し、メリットとして、子ども理解を複数の視点で行える点を第一に挙げている。近年は、チーム保育の基礎として組織文化が存在し、組織の在り方が保育の質に対して強い影響を与えることが示され、組織の一員としての保育者の成長を促すことを目指して園内研修の新たな試みが進めれている。」(中央法規『保育学用語辞典』(秋田喜代美監修169ページ)

今日の研修会では、実践発表として2園から報告されましたが、学級担任をやめ複数担任で保育をしている事例もありました。千代田せいが保育園では、年齢別のクラスとそれぞれに年齢別の担任がいます。ただ子どもの生活する空間は、それぞれのフロアを自由にどこでも行っていい、遊んでいいということになっています。子どもの発達や興味関心から活動が生まれうやすいようにしているからです。子どもが行った先に先生がいて、クラス担任を超えたところで対応することもあります。

子どもはガムテープを転がして遊ぶことができる

2023/10/25

◆保育参観でよく見かける子どもの姿

今月10月は「保育参観」が連日行われています。保護者の方が自分の子どもがどんな風に生活しているのか、遊んでいるのか、あるいはどんな風に食事をしているのか、寝ているのかなど、時間帯を選んで参観されています。散歩先の公園まで着いて来てみてもらうこともあります。今日は午前中は乳児は室内から屋上へ、幼児は戸外と室内の行き来がありました。乳児は子どもにみつからないように参観してもらう、というのも保育園の特徴かもしれません。

そこで必ずといっていいほど、家庭と園では見せてくれる姿が違うという話が出てきます。先日も年長の女の子とが「レバーのマリアナ風(ケチャップ味)」を、「美味しそうに食べていた、お代わりまでして!うちではレバーとかは絶対食べないのに」と驚いていらしたり、今日は0歳児クラスの赤ちゃんが屋上の野菜のナスをちぎったり、花壇ではなくビオトープの雑草(猫じゃらしやパンを上手に前歯でかみ切って食べている様子をご覧になって「毎日の写真もありがたいが、やっぱり実際の動きをみてよくわかった」という感想を語られていました。

◆環境の違いからくる子どもの「やりたがり度」

それは最も大雑把に言えば、家庭と園の環境が違う、というということですが、同じ保育園の中でも、同じ子どもが「そっちはやりたがり、でも、こっちは興味を示さない」というようなことが、その都度いっぱい起きています。今日はダンサーの青木さんたちもきて、身体を動かして遊ぶ時間もあったのですが、そういう活動に入ったり、入らなかったりする子どもの様子を私もみていて、このことを改めて考えてみたいと思いました。

その差は子どものさまざまな欲求(生理的欲求や社会的欲求)や、知的な興味や関心、それらを含めた個別の「発達の違い」などと言われているものを中心に捉えることが多かったように思うのですが、それだけでは捉えにくい姿が実際には起きていそうです。つまり遊びをみていると、子どもの内面や心理などの子どもの内側のことに主たる要因を求めるのではなくて、「同じ子ども」が新しく出会う「環境」と子どもの間に実際に起きていることは、別様の説明がいるのではないか、という感じのことです。特に遊びにおいて。

◆ガムテープを転がして遊ぶ姿

ある3歳児クラスの子たち4人ほどが、制作遊びで使うガムテープを床の上で転ばし始めました。タイヤの輪のような向きに転がせば「よく転がる」ということを、わかっているのか(気づいているのか)、わかっていないのか、録画していなかったので、今思うとそれはよくわかりませんでしたが、主に当てずっぽうに、放り投げたりしているように見えました。あわせてキャッキャと騒いで、自分の体も楽しそうに跳びはねています。いつもいる仲間と一緒にやっていることも楽しいようです。ガムテープは時々遠くまで転がったり、ぐねぐねと曲がったり、パタンと止まったり、カタカタと回ったり、緩やかなカーブを描いて戻ってきたり、しています。担任は「あ、戻ってきた!」など、多少演技性を発揮して注目してほしい現象をわざと言葉にしていましたが、子どもは特にそこに面白みを感じ取るわけでもなさそうです。

◆何が面白いのだろう?

自分の手で放られて離れ、ガムテープが床に着地するときの勢いや向き(面)で、転がり方が変わるわけですが、ガムテープという穴の空いた短い円柱という形は、重力下の平面の上では、力を加えると、このような色々な動きをします。これまでにも、この子たちは、いろんなものを同様に投げたり転がしたりしてきたわけですが、そういうことを繰り返しながら、ボールとも風船ともシャボン玉とも違う、物の動きをそこに見出して(意識して比較してはいないのでしょうが)、物の形が持っている特性を、物の動きの中からピックアップしていく、その情報を取り出しているということをやっているのでしょう。そのつながり具合の中に言葉などの象徴的な記号も含まれていくのでしょうけれど。

ガムテープという、子どもが手にして投げることができる程度の大きさと重さ、そこにちょっと広い床があって、自分で難なく操作できるということが、その動きを誘発しているかのように見えてきます。そのものがアフォードした動きが子どもたちの間に生まれた、という見え方できるのでしょう。まずはそうした場が持つ、ある種のエネルギーのような空間を用意してみて、子どもがそこにどういう動きを誘発されて見出していくのかを見てみたくなります。

◆大人が期待することと子どもの遊びのズレ

ただ大人は、普通こんなことしません。ピタゴラスイッチの番組を作っているような人や、SNSでガラス瓶を階段から転がして割れる動画を作っているような人ならともかく、よっぽど暇でもなければ、ガムテープを転がしてみるという遊びなどはしません。それは、しなくても、どうなるかは大体予想がついているから、あえてどうなるか、やってみたいとは思わないのですが、またそういうものは用途が違う、そんなことはしないでほしいもの、だからです。

あえてやったとしても、こんなとき大人が思う「面白さ」は、どうやったらもっよ「よく転がる」か、というあたり向かいがちです。あるいはどうやったら高く積めるかとか、綺麗な形になるとか、大人はそれを思わず期待してしまいます。でも子どもは、あたかも大人のいう実験のように意識して試すというほどの意識もなく、ちょっとやったら面白そうだから、また続けてやってみるという感じで、自分の体も物も勝手に動いている感じです。そして実際に、子どもたちは飽きたら何もなかったように他のことに移っていきました。この話は、明日に続きます。

 

 

ドングリ遊びの中で起きていること

2023/10/21

昨日20日(金)は、保育園を選ぶために来園された方の見学が終わる頃、散歩から園児が帰ってきました。乳児も幼児も秋の収穫物がいろいろです。どんぐりや銀杏、ひめりんご、紫色の何かの木の実も混ざっています。さあ、それを並べたり、潰して色水にしたり、紙や布に浸したり、染めたり、実を転がしたり土に埋めたり、まあ色々なことがなされるでしょう。

どんぐりなら、幼児は毎年のようにコマや、やじろべえが作られたり、色が塗られたり、動物などのマスコットやリース、モビールなどの装飾に使われたりします。

4〜5歳児の子たちは、数日前から牛乳パックでできた長い道を、どんぐりを転がして遊んでいます。右に転がると行き止まりで「はずれ」。左に行くとさらに進めるのだそうです。道から落ちたどんぐりは透明カップの中にうまく落ちれば「あたり」です。さらにそこから先の道ができるのかどうか? そんなことをやるのに子どもの列ができたりしています。

その奥の方では面白いどんぐりマスコットができていました。どんぐりを顔に見立てて、マジックで目や口を描いています。それは絵本「かおかお いろんなかお」と同じコンセプトで、4歳の女の子二人が「眠いかお」とか「うんちのときのかお」などと、いろんな場面の顔を実際に担任にして見せてくれ、それをどんぐりの顔にしていました。

3歳児の男の子は床に落ちて跳ねるどんぐりが面白くなって、床に投げては跳ねさせることを繰り返したり、もっと上に高く投げてみる子どもが出てきたりします。今度は一つずつではなく、数個をまとめて続けて投げる子どもが出てきて、どんぐりがそこらじゅうに転がって散らばると、それに加わった5歳の子は「どんぐりまつりだ」とはしゃいでいます。ちょっとはしゃぎすぎると、先生から「ちょっと遊び方が違うかもなあ」と修正されたりしながらですが(笑)。

こういう姿を見ていると、子どもは思いつきでいろんな遊びを楽しんでいるのですが、年齢によってもその差が見られ、遊びの「あてどなさ」とでもいうのでしょうか、受動的にあれもこれもと注意が拡散している時期から、だんだん目的を持ってやることが高度になっていく感じが確かにあるのです。その辺りの違いはクラスごとの保育ドキュメンテーションで比べてもらえるとわかるかもしれません。

しかし、そのことをもっと本質的に捉えると次のようなことになりそうです。無藤隆先生が、このような遊びの特質を次のように表現されていましたので、了解をいただきましたので、ちょっと長いのですが全文をご紹介します。

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○幼児は一歩前に踏み出し新鮮さに出会う

幼児はどうして毎日のように園に来て、毎日のように新しいことに取り組むような新鮮な気持ちで遊ぶのであろうか。

そもそも、今という時間は静止した固定したことではない。常に動きつつ、その流動はどうやらその瞬間といいながらもごく短い時間の継起としても経験されるらしい。その瞬間は今でありつつ、既にその次の一瞬に踏み出しかけ、そしてその少し先への予感としての開かれた先へと方向付けられる。より正確には、その踏み出す勢いがその先の何かを開き、方向付けとなるのだろう。

別に哲学的あるいは科学的な議論をしたいわけではない。幼児がその身近な環境に出会う様子を記述したいのである。その今を一歩踏み出す。そこに環境との呼応があり、気まぐれがあり、偶然があり、思いつきが促し、思いがけないことが起こる。そこに新鮮さが現れるだろう。

そこには型通りの行動や予定されたいつもの活動であり、時に昨日の続きであるにしても、そこにはそのような新たなことが生まれ、その新たなことへと踏みだし、踏み出すから新たなことが一層そうなっていく。それは「今」が揺らぎの中にあり、流動する中の瞬間であり、そこにその先への決定はできないからである。

とりわけ幼児はその統御より、その揺らぎにおいて生きている。統御がなされつつも、その先への大きな方向と切りかえのいわばギアは徐々に起こるのであり、それは半ばのことなのである。

その統御の不完全さは人としておそらく常にそうなのだが、とりわけ幼児はその不完全さが顕著であり、それがかえって新たな可能性をその一歩先の未来へと作り出す。それは例えば、何かを作りながら考え思いつき作っていくことであり、そのプロセスを生きることである。

朝の活動の開始を見れば分かるように、そこには昨日の続きはいつも曖昧にしか起こらない。ものを作ることと片付けることが一緒になっていることでもあり、新たに作り出すことが基本的なあり方となっている。昨日の活動の跡があろうと、それは痕跡であり、単なるパズルの続きをすることにはならない。

そして一歩新たに踏み出すと、そこでそれを通して生まれるものの配置は新たなものとなり、そこに未知の可能性が見えてくる。それをさらに踏み込めば次の可能性がまた多岐に広がるだろう。

幼児の世界はそのようにして、新鮮さに満ちている。新たな可能性の探究に常になっていく。遊びとはそのような新鮮さを充満させる営みなのである。そのようにして生きることは可能性を生み出し、その実現はさらなる可能性を広げることであり、そこに活動の豊さが生まれる。その新鮮な輝きは自分が世界の中にあり、その中で惑溺し、その感情を生きることである。

そこを振り返り、今後に向けて見渡すことを行って、その活動の流れが生起し、自覚され、方向付けることも増えていく。それは多様な活動を方向付け、ある制限を設けることだがそれに伴い、より焦点化した探究となり、深さの追究となるのである。

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いかがでしょうか。連日、遊んでいる子どもたちには、確かに、こんなことが起きていると思えるのです。3歳の子どもたちが「どんぐり祭りだ!」と多少ハメを外すように見えたとしても、それに遊びの本質が現れていて、自分がやったことから、またフィードバックが起きて、新たに現れてくる新鮮さに惑溺しながら、その楽しさを満喫している瞬間の連続なのでしょう。

ちなみに年長はその後、事務室にどんぐりの入った袋を冷蔵庫に入れて凍らせてくれと頼みにきました。

代弁とは「気持ちを言葉でなぞる」こと

2023/10/11

「先生、うまいこと言うなあ」と1歳児クラスのブログを読んで感心しました。以下に紹介します。最後に「こっそり共有するのが嬉しい」と書いてあったのですが、保護者の皆さん全員と共有したいので、ここに紹介させてもらいます。やっぱり、うちの先生たちは、子ども同士の関わりの育ちに関心が強く向くようです。

・・・・・いつものように、子どもの名前はイニシャルに変更します・・・・・・

昼食前、Sくんが水道で手を洗っていると、その隣の蛇口に、Yくんもやってきました。


Yくんが来ると、Sくんはさらりと隣の蛇口に手を伸ばし、ひねって水を出してあげていました。


Yくんも、そこで手を洗いはじめます。

言葉を交わすこともなく、ほんの数秒のことでしたが、なんだか、その言葉のいらない自然な関係や関わりが素敵だな〜と感じました。

さらにその後も水道の手洗いのようすを見ていると、Cちゃんが後ろで順番を待っていたRくんに「Rくんどうぞ〜」と、”自分の使っていた場所が空くよ”と伝えてあげたり、となりのお友だちに石けんを渡してあげたり…。

お友だちのものが欲しかったり、お友だちのことをやってあげたかったり、まわりの友だちに興味を持って関わりたい!という気持ちも強くなっているぐんぐんさんたち。
その分、時には相手との気持ちのズレやすれ違いで ぶつかって、ケンカになることも多いけれど、じっくりとよーく見ていると、こんな風に、相手への気遣いや “やってあげる・やってもらう(さらには、相手にやらせてあげる)” の関わりも、たくさん隠れています。しかも、そんな姿に限って、とってもさりげなく、自然に見せてくれるので、パッと見た姿だけでは、なかなか気が付きにくかったりもしますね。

お散歩前には、Rちゃんが、Sくんの帽子を持ってきて、渡してあげようとしていました。
みんな、自分のものだけでなく、それぞれのお友だちの持ち物をよく覚えています。

Rちゃんが、帽子を差し出しながらSくんを追いますが、Sくん、まだ帽子をかぶりたいタイミングでなかったのか、違うところに気が向いていたのか、Rちゃんが帽子を差し出していることになかなか意識が向いていないようすです。
Rちゃん、その姿を感じ取ったのか、”まぁいっか”と一旦帽子を渡しに行くのをやめようとしていました。それもまた、相手を思いやる姿かもしれません。渡してあげたい自分の思いもあったけれど、いまは受け取らないみたいだな…と相手の姿に目を向けて切り替えています。
・・・なのですが、この場面では、Sくんは帽子を嫌がっていた訳でもなく、そこに気が向いていないだけのように見えたので、大人が「Rちゃんが、しおんくんの帽子持ってきてくれたよ〜」と言葉にのせて伝えると、ふとその姿に気がついて、帽子のやりとりをしていました。


そうして、大人が言葉に乗せながら、子ども同士の関係を繋いでいく瞬間もあります。

子ども同士の関係を繋いでいくときに大切にしたいと思うのは、そこに大人の気持ち(主張)を入れ込まず、『それぞれの子どもの気持ちを言葉でなぞる』ということです。
例えばこのシーンで考えると、Sくんに対して「帽子受け取ってあげて」と言うのでなく、”Rちゃんが渡してあげたいと思っている”ということを、伝えていきたいな、と思います。受け取るか受け取らないか、そのときかぶるかかぶらないか は、Sくんが決めることだからです。
もしも、渡してあげようとしたけれど、Sくんが嫌がったとしたら、そのときは、「いまはかぶりたくなかったみたいだね。渡してくれてありがとう」ということをRちゃんに伝えたかもしれないな、と思います。
「子ども同士の関係をつなぐ」というのは、関わり合った結果がいつも『うまくいく』ということではありません。自分には自分の思いがあって、相手には相手の思いがある。そのお互いの気持ちに寄り添い、言葉でなぞりながら、「じゃあ、どうしようか」と一緒に考えていく・・・それを根気強く、繰り返していく中で、子どもたちも少しずつ、自分たちでその対話を試みるようになっていきます。
自分の「こうしたい!」の思いが強く表現できるようになって、ケンカも激しくなってくる時期でもありますが、その中で感じる悔しさや葛藤、気持ちを通わせていく過程も、まぁいっか、と思える気持ちも、すべてが大切な経験だと考えています。その体験を何度も繰り返して、対話やコミュニケーションを経験していく中で、子ども同士での関係性が育まれていきます。
わたしたちは、「こうしたら良いんじゃない?」「これは、嫌だな、悲しいな」などと大人の思いも伝えつつ(もちろん「うれしいね!」「ありがとう!」などのポジティブな思いも含めて)、あくまで子ども同士の関係の中にそっと寄り添うことを、大事にしたいなと思います。子ども同士の関係に関わりすぎず、でも引きすぎず…の距離感が、難しいけれど面白いところです。
だからこそ、最初の手洗いのシーンでも、大人は何も言葉をかけず、子どもたちのやりとりをそーっと眺めて、静かに感動していたのでした。そんな、静かな感動をひとりで噛み締めるのはもったいないので、こうして、お家の方やまわりの先生たちと こっそり共有するのが、嬉しい瞬間でもあります。

・・・・・いかがですか?先生たちの考えていること。大事にしたいと思っていること。気づかれていない言葉にならない思いが見えるようにする「言葉でなぞる」という表現に私は感心したのですが、昨日の「環境からの呼びかけに対する子どもの呼応」という話を思い出すと、これも子どもにとっては、お友達の気持ちを、先生が押し付けがましくなく、環境からの「呼びかけ」に変えてあげているように見えなくもありませんね。人的環境は、空間や物の環境とはまた異質ではあるのでしょうけれど。

自分で決めることを支えること

2023/10/07

頭で分かってはいるけど、行動に移すことができないこと。私にはしょっちゅうあります。できない理由はいろいろですが、案外自分でも「手強い」のは、納得できないで、もうもやしているのに、やらないといけない時です。頭でもよく納得できないでいるのでしょうね。でも立場上とか、言った手前とか、まあ、いろいろありますよね。

それは子どもだってあるでしょう。決めた時間に起きることや寝ること、好物の甘いものや炭水化物を食べすぎないこと、ケンカになって自分が悪いとわかているけど素直になれないこと。大人でも似たようなことありますよね。子どもの場合で、先週見かけたことは、どうしてもママに会いたいと朝から「お家に帰る」「ママに会いたい」と言って聞かないこと、それとは反対に好きな遊びを終わることがなかなかできず、お迎えの時間だけど「帰りたくない」と言ってお家の人を困らせること。また昼間でもありますが、遊びや遊具の交代は「わかっちゃいるけど、やめられない」の一つかもしれません。

今日は実習生の日誌を読み返して、総評をまとめていました。保育の理解の仕方の中には、そうはっきりと断言できるようなものは、意外と少なくて、例えば子どもが「自分でそうしよう」と決めているように見えていることも、いろんな要素や力が働いて、複雑な無意識の働きの結果、そうなっているのだろうということが多いと思います。その要素や働きの中に、保育者が支えるというによる影響も当然含まれます。それは、どういうことなのかを実習生にも理解してもらいたいと思うことがあるのです。

例えば10月2日(月)のことです。私はブランコに乗ってい3歳のIちゃんを後ろから押してあげていました。それが楽しいらしく何度も「もっと早く」とせがむので、押して大きく揺らしてあげていたのです。しばらく経ったとき、年長のHちゃんが「やりたい。代わって」と走ってきました。Iちゃんは黙っています。もうずいぶん乗っているので、代わってあげようという気になるのかな? どうするかなあ? と見ていたのですが、黙っているので「変わってほしいと言われていることはわかるけど、もっと乗っていたい」と思っていることがすぐわかりました。年長のHちゃんは、交代して遊ぶということを相手にも期待して「もう、代わって」と、強くもう一度言うのですが、だめだと諦めて別のところへ行きました。

そのいきさつを、ボランティアにきていた小学6年生のAさんもみていて「こういうとき(Iちゃんに)代わってあげるように言うの?」と私に聞くので「そうだね、Iちゃんはわかっているんだけど、そうしたくないんだよね。どうやったら自分で、いいよ、って気持ちになるのかな。大人が『代わってあげなさい』と、そうさせてしまうのではなくて、自分でそういう気持ちになるといいんだけどね」というと、小学生のAさんは「ブランコ、もっといっぱいやるといい」と言います。満足するまでブランコすれば、代わってあげようという気持ちになるだろう、と考えたようです。

年長のHちゃんは、乗るのを諦めましたが、乗りたい子が多いときは、また別の結果や違った行動になる場合もあります。ブランコに列ができるときもあります。そいうときは自分から交代することや、順番で遊ぶことなどを受け入れやすい状況だったりします。また相手によって自分のやりたいことを押し通せたり、自分が我慢しないといけなかったり、します。特に相手が知っているお友達だったり、その友達関係のあり方によっても、違ってきます。また援助している先生によっても変わるときもあります。また家でも、お父さんかお母さんかでも、子どもは自分の思いや気持ちの押し出し具体を変えることがあることに思い当たることでしょう。

このように自分から何かをしたり決めたりするのも、ある程度発達してきたからといって、いつも安定的に同じようにできるというものではなく、その資質や能力が発現しやすい環境や状況というものがあって、それと切り離せないようなかたちであらわれるということがあります。その繰り返しの中で、長い目で見た時に、成長を感じる時がきます。

また私が「Hちゃん、ブランコ、代わってくれないかな、だって」とHちゃんの気持ちをただ代弁したつもりで言ったとしても、Iちゃんにとっては、一緒に遊んでいた私がそれを口にすること自体が、別の意味を影響を生むことになります。自分でそうか!と気づいて行う、ちょっとした後押しになることもあれば、かえってIちゃんの気持ちを頑なにすることだってあるでしょう。

このように、どんな援助や声かけのようなものがいいのか、などをその状況判断を抜きに一般化することはできません。やはり個別具体的な判断とその振り返りの繰り返しの中で、その子どもにとっての、ある確からしいことが見えてくるのだろうと思います。その子どもが「代わって」と言われたことがわかり、どうしようかなと考えたり、どう言ったらいいのか工夫したり、表現することは、それぞれです。その過程で、内面で動いている心情は前向きな肯定的な気持ちや不快な否定的なものの間で揺らぎながら、自分なりに出口や光と思えるところを見つけていくでしょう。

思いつきで思わず手が出て、体が動いてやっている遊びが面白くなって没頭し、さらにこうしたいという目標が見えてきてそれをやろうと工夫します。自分だけではなくてお友達とのやりとりを通して、やりたいことや思いつくことも変わっていきます。その都度の積み重ねから、なぜかより善いことにつながっていくのでしょう。どうやってそこに至るのか、大人も子どもも、自分の中で無意識の仕組みの中で起きていることは見えようがありません。ただ、個別多様であっても、その2〜3年という長いスパンの中で成長していく筋道があります。その道筋はよりよい生活のありように向かって参加していくものになるといいのですが。

それだけに、わたしたち保育者は、いろいろ望ましい結果を生むように環境を考えますが、年中、年長ぐらいになる子どもにとっては「自分でやった」「自分で決めた」「それがよかった」という実感を生むようなプロセスを大事にしながら、他者のことも考えながら自分で決めたと思える行動に結びつくように思えるのが「幼児期にふさわしい生活」の一要素のように思えます。

14日の「そうそう、そこそこ」子どもなりの世界の広げ方

2023/09/14

14日の「そうそう、そこそこ」は子ども理解のバリエーションです。1歳の子どもなりに自分の世界を広げていく様を取り上げています。

というか、よくもそこに着目できているなあ、すごいなあ、ということなんですけども。

エピソードは2つ、二人あったのですが、どちらも子ども同士の間に起きている発達の最近接領域のことといってもいいでしょう。二人とも1歳児クラス。担任は「ちょっと上」とか、「チャレンジ」という言い方で、子どもがそ〜っと踏み込んでいく自分の世界を捉え、保護者の皆さんに伝えようとしてくれています。

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<エピソード1>

ヨーグルトのおやつが出た日、Sくん、自分でフタをあけることにチャレンジしています。

配膳をしてくれた先生が、”ここからはできるかな?”と、ヨーグルトのフタを最初のちょっとだけを開けると、フタつきのまま渡していました。 全部開けてから子どもたちに配膳するほうが、失敗することも少ないし、すぐ食べられるけれど… そろそろ自分で開けることができるようになってきているかな?と、あえてつけたまま渡してくれています。 大人がさらにちょこっと手伝って、『ここを持ってめくるんだよ』と示すと、Sくんも真似をして、見事自分で開けることができました。

ほんの小さなことにも思えるのですが、昼食のバナナやオレンジでも同じようなことがあります。 最初は皮ごと食べようとしてしまったり、皮をむかずに中身をなんとかかじろうとしたりしますが、徐々に「皮をむこうとする」仕草が出てきて、手先がうまく使えるようになってくると自分でむいて食べるようになります。

そうした様々な発達のステップがあるので、私たちはそのステップに合わせて、大人がむいてあげたり、子どもが自分でやりやすいように途中までむいてあげたり、自分でむけるようになってきたらそのまま渡したり…と それぞれの子に合った関わりをしていきます。ついこの間までバナナの皮ごと食べようとしていた子が、皮をむいてみようとしているのを見て、嬉しくなったりもします。

『発達のステップに合った関わり』というのがまた面白いところだと思うのですが、その子にとって簡単にできすぎてしまうことは、「発達に合っている」とは言えないように感じます。「発達」には、いつでも少し、「チャレンジ」という要素が必要なのかもしれません。 自分ができることの少し上、をトライする中で、子どもたちは少しずつ少しずつ成長を重ねています。

時には、ちょっと道草したり、あと戻りしてみたり…ももちろんあるかと思いますが^^(きっと、そのくらいの『あそび』も大切な時間なのですね。)ヨーグルトのフタも、ぐんぐんさんたちにはちょっとしたチャレンジでした。でも、Sくんが ちょっと頑張って自分で開けてみたり、うまく開けられた子が、「できない〜」というお友だちのをさりげなく開けてあげたりする姿もあって、子どもたちの発達や成長を引き出していく要素は、色んなところに色んな形で起こりうるのだなぁということを実感します。

子どもたちの力や、いま伸びようとしている姿を存分に引き出していくには、それぞれの子どものことをよく理解していないといけないのだと感じます。私たちも、子どもたちと一緒に挑戦したり試行錯誤したり…を繰り返しながら、一人ひとりの子どもの姿をじっくりと捉えていきたいと思います。

<エピソード2>

ところで、子どもたちがそうやって”一歩踏み出す”ための環境や関わりは、遊びの中にもたくさんあります。 お友だちの運動遊びをずっと隣の部屋から眺めていたIくん。一緒にやる?と聞いても『ううん』と首を振りますが、眺めているのは楽しそうです。楽しげな友だちの姿につられて、Iくんも時々にこっとしながら見ています。 そこからしばらくお友だちの姿を眺めるうち、だんだん近くへやってきて… Cちゃんにツン♩そのあとは、お友だちが遊んでいるマットをめくってみたり、こちょっとくすぐってみたり。

ほかのお友だちと一緒になってマットの上に寝転んで遊んでいたわけではないけれど、お友だちの遊びの楽しさをしっかりと一緒に感じながら同じ世界を楽しむ姿に、『こんな参加の仕方も良いなぁ』と小さな感動を覚えました。

とくに最初のうちは、パッと見ただけでは、「一緒に遊んでいる」ようには見えなかったかもしれないけれど、その時の Iくんの表情や姿を見ていると、たしかに、お友だちと同じ面白さを感じ同じ世界を一緒に楽しんでいるように見えました。

こんな風に、それぞれの子のタイミングや楽しみ方、味わい方があって、一人ひとりの世界の広げ方があります。それをいかに一緒に感じとり、支えていけるかが、「発達」や「成長」にとっても、大切なことなのかなぁと感じています。

・・・・・・・・ここまで・・・・・・

このように、本当に何気ないシーンなんですけれど、これまでの積み重ねから育っていきつつある姿を切り取ってくれていて、私は嬉しくなるのでした。

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