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園長の日記

ごっこ遊びは日常から「隔離」されていなければならない?

2023/09/04

独り言。

なぜ人は踊り、演劇を楽しむのか?

日曜日、ホイジンガとカイヨワの文庫本をバックに入れて、山中湖までのバスの中で開いて思い巡らした。帰りのバスには三島の文庫本も一冊加わった。そして遊びが日常生活と隔離されていることの大切さに思い至った時、だからわざわざ劇場空間を人は作り、遊びが安易に日常の感覚と混ざり合わないようにしたのか、と気づく。その空間は幼児教育施設でも、最も大切な空間のありようではないのか? そうなら「(自由)遊び」が守られるような場であることを、もっと鮮明に表す言葉にした方がいいだろう。預かり保育? とんでもない。こどもまんなか、というなら、そうした命名を廃止するべきだろう。フレーベルもキンダーガルテンと名付けた時にそう考えただろう。〜保育などという、大人を主語とした用語を思考実験として一旦廃止してみたい。指針要領がこどもを主語に書いてある姿のように。

月曜日。「遊びも堕落する」。カイヨワの説明である。ミミクリである演劇、つまりごっこ遊びの姿を見に行った。なるほどと思う。「何?なんのよう?勝手に入ってこないで」と私は叱られた。そこにはお母さんとお姉さんがいた。私はその演劇世界に勝手に闖入してはいけなのだ、と良くわかった。ここには見えない幕が上がったり下りたりしている。だから見守るということが必要な、意味文脈もある。

そして、やはりその中で何が起きているのか、目を凝らしたくなる。

子どもが自分を発揮できるコミュニティーへ

2023/09/02

人と人がコミュニケーションを取るときに「食事」と言うものは欠かせない環境だと思います。仲良くなりたいとき、お茶でもどう?とか、ご飯でも一緒に食べましょうか?とか、飲食は、コミュニケーションの大事なツールと言って良いでしょう。同じ釜の飯を食うという言葉だってあります。国が大事なお客様さんを招いたら、晩餐会は欠かせません。

昨日1日の夕方、保育園の屋上で、保護者コミュニティー「しずくの会」がパーティーを開いて下さいました。家族ぐるみの保護者晩餐会です。食事が済んだ子どもたちは、保育室で保護者の見守りの中、遊びました。保育園だからこそできる夕食会です。

昼間働いていて、忙しい保護者の皆さんは、お互いのことを案外知る機会がありません。同じクラスでありながら、親睦を深める機会というのが少ないのです。夕方の保育が終わった職員も数名参加して一緒に語り合いました。私も数人の保護者の方と、その子供の最近のエピソードを交えて、お互いの思いを楽しく共有しました。

そういう話をしていると、家庭での子どもの姿と保育園での子どもの姿の違いと言う話題になるときがあります。保育園で〇〇ちゃんがこうですよ、と言った話をすると、家ではそんな姿はありません、とびっくりされる時もあります。それはそうなんです。保育園と家庭では環境が違いますから。矛盾しているように見えたとしても、それぞれの姿はその子らしさを表しているはず。

私たちは、人はどんな環境に置かれていても同じような振る舞いをするはずと思い込んでいます。でも事実はそうではありません。文脈から独立した、客観的で、不動の個人と言うものはないと思ったほうがいいと思います。

ある著名な哲学者は、それを「分けられない」という意味の個人=インディビジュアル(individual)に対してinをとって「分けられる」を意味するようにディビジュアル(dividual)と名付けたそうです。それを平野啓一郎さんは「分人」という日本語訳を提案しています。私は面白いなぁと思います。

保育園が遊び込める空間になっているから、そこにあるものや、人に出会うとその世界に引き込まれ遊び始めるのでしょう。愛情と安心に溢れた親の下から離れて担任に身を委ねる時、親は一抹の寂しさを感じるものでしょう。

しかし、それは担任に対する信頼感もあるでしょうが、それ以上に保育園で味わっている世界の面白さが思い出され、未知のものが既知のものに変わっていく体験の魅惑に誘われているのかもしれません。あるいは好奇心や探究心が旺盛な子どもが保育園での遊びを希求し、そこに誘ってくれるアイコンのような意味を保育者が発信しているのかもしれません。

親や家庭には、園や先生では、決して及ぶことのできない親密な愛情の世界があり、保育園には家庭にはない仲間や遊びの面白い世界があるのでしょう。家庭でも保育園でも、その子どもにとって輝いて見える世界に差は無いのです。子どもという「分人」が、それぞれの世界から光を浴び、自分を発揮し、輝いているのでしょう。

 

第2回 全国実践研究大会 in 石川・富山(2日目)

2023/08/26

全国実践研究大会の2日目は、実践発表です。6つの実践が報告されたのですが、その後の藤森代表の講評の内容に沿って、実践の特徴を以下に簡単にまとめておきます。今年こども基本法が施行されました。これは子どもの権利条約を制度化したもの、と捉えることができます。そこで子どもの人権を大切にするということを、改めて保育で考えるとき、いくつかのキーワードから保育実践を振り返ることができそうです。そういう意味でも6つの実践は全てその参考になるものでした。

まず、子どもの人権や主体性を考えるとき、キーワードとなるのは「参加・参画」でしょう。子ども自身がどうするかを思い巡らしたり、意見や思いを反映を物事の決定に反映させてもらうこと。また意思決定のプロセスで話し合いなどをしたりしながら、子どもたちなりに最善の方法を考えていくことも含まれます。子どもの権利条約で「4つの柱」と言われているものの一つ「参加する権利」の具体化と言えます。

そうした「自己決定」と「選択」という視点から実践を報告したのは、芦花の丘かたるぱ保育園(東京都)の「君たちはどう育つか」。自分の意見だけではなく、他人の意見も受けとめて考える保育を積み重ねてきた結果「今では傾聴する力や受容する力が根付いてきた」といいます。年長児が野菜を育てていく活動の様子から「仲間と作る1年」が報告されました。

子どもの人権には「自分らしく育つことの権利」もうたわれています。その根底になるであろう心の基盤の一つとして大切に育てたいのは「自己肯定感」です。国際比較でも日本の若者のそれが低いことが、この間ずっと懸念されてきました。これは「今のありのままの自分を受け入れる力」と言っていいものですが、そこに注目した発表が、新宿いるまこども園(東京都)からありました。子どもの自発的な活動や、他者から認めてもらう経験を大切にする保育です。発達が異なる集団の中での生活や遊びの中に、そうした関わりが生まれ自己肯定感が育まれていくことがよくわかる内容でした。

同じ法人のいるま保育園(埼玉県)からは「我が国の課題に向き合う、見守る保育・藤森メソッド」と題して、自己有用感にスポットを当てた実践の分析が報告されました。乳児が幼児の姿をじっと見つめ、それを真似てお友達にやってあげる・させてあげる姿、幼児クラスでの当番活動、年下の子どもへのお世話や手伝い、ピーステーブルでの話し合いなどが動画で報告されました。異年齢での生活や遊びの中にそうした関わりが自然とたくさん発生しています。

子どもは障がいの有無や年齢、ジェンダーで差別されてはなりません。保育における包摂のテーマを取り上げたのは、幼保連携型認定こども園 城山幼稚園(熊本県)の「見守る保育におけるインクルーシブ」でした。具体的にはオープン保育、チーム保育、お手伝い保育、共食などを通じて「みんなと同じように活動に参加できない子どもを年長児が自然に受け入れ、その子用に遊具を用意したり、みんなで遊べるルールを作り始める」様子が報告されました。

「園庭にどんな遊具や場所があったらいいと思う?」。子どもにカメラを持たせ、子どもが何に興味を持ちどんな園庭を望んでいるのかを把握しながら園庭を作り直したのは、ちゅうりっぷ認定こども園(富山県)です。「子どもの様子や視点から園庭環境を考える」取り組みで、「子どもの参画」を大切にしていました。子どもの意見が反映させた園庭が徐々にできていく様子を、わくわくした顔つきで見つめていました。

子どもの人権には、子どもの育つ権利を含まれます。子どもの驚きや不思議に思う体験が起きるような環境づくりに取り組んでいるのが、わかばこども園(石川県)の「子どもの驚き・不思議さを引き出せ!〜STEAM保育の実践とこれから〜」でした。日常の中で感じた不思議について、自分達で調べたり遊びに発展させられるような保育を目指しています。

第2回 全国実践研究大会 in 石川・富山

2023/08/25

前日の夜から金沢に来ています。今日25日から明日26日まで「第2回 全国実践研究大会 in 石川・富山」に参加しています。これは当法人の理事長、藤森平司が代表を務める保育環境研究所ギビングツリー(略称・GT)が主催するもので、今年3月に続く2回目になります。全国各地から180名を超える先生たちが集い、実践を持ち寄って、子どもがどんな学びをしているのかを研究します。初日の今日は午前中は施設見学、午後は基調講演と記念講演でした。

GTの仲間はお互いに見学して保育の様子を見合うことを大切にしています。午前中の見学先は、ひかりこども園、こども園和光、キッズみなと園、わかばこども園、わかばにしかるみこども園、西田地方こども園の6園。この中から私は「わかばこども園」を見学しました。昨年7月に建て直し、竣工したばかりの新しい園で、広くゆったりとした空間に、ゾーニングされた物が配置されています。物や空間には、意図された保育のねらいが表現されています。乳児から幼児までが、それぞれ思い思いの遊びに熱中していました。見学者にあまり気を取られることもなく、遊びが展開されています。

午後の講演は藤森代表が、これからの時代に必要な保育の考え方と方法を約2時間にわたって説明しました。その中で話題は多岐に渡りました。夏休みに保育ボランティアに来ている卒園児の様子、地元の自治体や東京都に対して、保護者と共に望ましい保育や教育について提案している内容、子どものために幼保一元化が必要な理由、保育の質を高めていくために保育者が研究することの必要性など。最後に「子どもが何をどう学んでいるのかについて、現場から研究して世の中に伝えていけるように、私たちは学び続けましょう」と呼びかけました。

 

記念講演は社会福祉法人 佛子園 理事長の雄谷良成さん。演題は「ごちゃまぜ 〜木を見て森を見る力」。子どもから高齢者まで、いろいろな人が出会い、関わり自分らしく生活や仕事ができるように、施設空間をデザインしながら、居心地の良い空間を作り上げていました。乳幼児の保育の場であり、小学生や中高生が放課後に勉強していたり、障がいのある方やリハビリ中の方が、トレーニングに励んでいたり、失業中の人がここで働きはじめたり、実に、様々な人々の人生が重なり合って行きます。

そして不思議な、とも言えるような出来事が生まれています。個別にやっていたらうまくいかなかったようなことが、ここでは叶えられたり、改善されたり、生きがいや張り合いが生まれ、幸せな笑顔が取り戻されていました。人と人の関係性や触れ合いがいかに大切かを考えさせられる実践です。

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夜の懇親会では、藤森代表が陽明学の知行合一について話されました。3月の1回目の鹿児島大会にしても、今回の2回目の大会にしても、開催地の園の先生方にはほんとうに感謝です。ありがとうごさいます。学んだことを実践に移し、また実践から学んでいきたいものです。

王道は道草に有り

2023/08/16

以下のことと「子どもの人権」を結びつけることができるようになって、保育の基盤がさらに強固になってきたと感じます。以下のこととは、保育でよくある活動と活動のつながり、移動の途中だったりするタイミングのことなのですが、この「道草優先」にも、自分らしさの自己発揮の姿が垣間見られます。保育記録の「振り返り」にこう書いてありました。

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2階のお部屋に水遊びへ出発したけれど、部屋を出るなり、MちゃんHくんは、1階のロッカーのボタンを押してみたくて、ちょっと寄り道。Wちゃんも、探索がしたくて、2階は通り過ぎてそのまま階段登りへ。『水遊び』という活動の中にも、そこに行くまでにたくさんやってみたいことがあって、大人や年上の子どもたちに見守ってもらいながらゆっくり探索をすることができた。大人が、その日の活動(水遊び)の場所までストレートに連れて行ってしまうことは簡単だけれど、子どもたちにとっては、そこに行くまでの「道草」が楽しかったり、そこでさまざまな体験が待っていたりすると思うので、一人ひとりのやりたいことやその子のペースに合わせて過ごすことができるよう、これからも、大人同士でうまく連携をはかって、過ごしていきたい。

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こそうそう、こうでなくっちゃ!保育の王道は道草に有り、とでもいいたくなります。室内ならまだしも、たまには外でも、車や自転車を降りて、散歩してみたくなりますね。たっぷりの道草をしながら。こんなに暑いとそうもいかないし。早く秋来ないなかあ^_^

 

赤ちゃんたちの気遣い

2023/08/16

先生たちが見つけたものを、おすそ分けしてもらえるのが保育記録です。

しかも、保育記録は近年、写真入りになってきたので、その様子を先生たちや保護者のみなさんと共有しやすくなりました。

そして、私も赤ちゃん同士の関係のなかに、いろいろなものを見つけるのが楽しくなります。

みなさんにも紹介しましょう。

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今朝のかわいらしいひとコマです。
ちっち組(0歳児クラス)のLちゃんが寝転んでいると ぐんぐん組(1歳児クラス)のCちゃんがやってきました。

赤ちゃんのお人形を、Lちゃんに触らせてあげているようです。


気が付けば、Wちゃん(ちっち)や Rくん(ぐんぐん)も一緒に、みんなでLちゃんを囲みます。

Lちゃんが Cちゃんの髪の毛に手を伸ばすと… Cちゃんが「さわったー🎵」と嬉しそうな笑顔を向けて教えてくれました。

わざと顔を近付けて、触らせてあげたみたいです。
以前は、コロンと寝転んでじーっとしていた Lちゃんですが、今ではすっかり、こんなにも お友だちの顔を見ようと身体をねじったり、手を伸ばして触ってみようとしたりするようになりました。
そうして色んな反応が返ってきて、ぐんぐんさんたちも Lちゃんとの関わりが嬉しそうです。

Rくんも、なんだかあやしているような眼差しや仕草で Lちゃんと関わろうとしています。
Lちゃんに触れてみるRくんに、Cちゃんが「やさしく、やさしく。いいこいいこだよ」と これまたやさしく話しかけていました。


Cちゃんが Lちゃんの耳に触れると、Rくんもそっと耳に触れてみます。
「Lちゃんの おみみ、ちっちゃいね〜」「おみみ、ちっちゃーい」とふたりでお話して・・・

自分たちの耳にも触って、大きさを確かめています。かわいいです(笑)
最近は 大きい/小さい とか 多い/少ない の概念やその違いも気が付いたり興味を持ったりするようになってきているようです。

こんどはLちゃんの 手 に触れてみます。

Rくんが、Cちゃんに倣ってLちゃんの手を握ろうとすると、Cちゃんがまた「やさしくっ(触ってね)」と教えてくれます。小さいお母さんのようです😂

それから Cちゃん、Rくんの手と自分の手を合わせて

「Rくんのおてて、大きいでしょ。」

つぎに、Lちゃんの手に触れて、

「Lちゃんのおてて、小さいでしょ。」

Lちゃん、ふたりの顔を交互にきょろきょろと見回し、かと思えば じっと見つめて…CちゃんとRくんとの触れ合いを全身で感じているようでした。

すごいなあと思ったのは、Lちゃんに玩具を差し出した Cちゃんが、Lちゃんと視線を合わせて「いる?…いるっ?」と問いかけていた姿です。

 

一見、なんということもない場面にも思えるのですが、こんな小さなお友だちにも、しっかりと気持ちを聞きとろうとして やりとりしてみるその眼差しに、感動します。

Lちゃんはお返事こそまだしないものの、
“自分があげたいから” “自分がやってみたいから”という気持ちの前に、まず相手の意志を聞いてみようとする姿は、大人も子どもも関係なく、見習いたいところです。どんな小さな赤ちゃんも、しっかりと自分の意志を持っています。それを、こうして 子どもたち自身が身を持って示してくれているような気さえします。

Lちゃんには、一つひとつの言葉以上に、やさしく話しかけてもらったり 一緒にふれあってもらったりした あたたかな感覚が きっと伝わっているのではないかなぁ。。

同じくらいのお友だちとは自分の気持ちをぶつけ合ってケンカすることもあるぐんぐんさんたちですが(その姿もまた大切な育ちです!)、こうやって、小さなお友だちに触れて、そっと大切に やさしく関わろうとする姿を見ていると、それぞれの相手との関係性やふるまいを、自分たちなりに考えているんだろうなぁと感じます。頼もしいお兄さんお姉さんたちです。

子ども集団の多様性を就学後へのつなぐには

2023/08/10

研修会で考えたことの続きです。就学前と就学後では「子ども文化」がどう変容するのだろう? この夏休みになると卒園児がボランティアに来ています。今週も数人が活動しています。子どもへのかかわりがとても上手です。それこそ見守り上手、援助上手といっていいでしょう。

それと併せて、月曜のGTサミットで語られた、卒園児の保護者である渡邊さんの話も思い出します。「小学校入りたての頃は学校の先生がたは、色々な意見を言うので面倒な子たちだと思っていたみたいですが(笑)、少し経つと言わなくても自分たちで考えてやっていく子どもたちだと見方が変わっていくんです」。

ギビングツリーのメンバーはデュディス・リッチ・ハリスの考えも学んできました。彼女がいう意味で、私たちは子ども集団は、子どもの社会化の主たる要因だと考えているのですが、そこを大事にしたときに、卒園後に学校に適応できる場合と、そうでない場合があるのはどうしてでしょうか。子ども文化の多様性が失われてきている可能性はないでしょうか?というのも、次のようなことが考えられないかと思うからです。

子どもが主役というときに(こども家庭庁は、それを「こども真ん中社会」と呼んでいますが)、就学前と就学後にはある種の多様性の幅が変わってしまうのかもしれません。園生活は子ども集団の中で、誰もが主役になれるような価値の多様性、優劣の多様性が異年齢生活のなかにはあるような気がします。

子どもは、だれもがその関係を嗅ぎ分けて、その関係のなかで自分らしさを発揮できること、見つけること、選ぶことができるようにしています。興味や関心が赴く先や、安心していられる居場所がそれぞれに選べるのからです。いわば生活空間がオープンであり、安心できたり、物事を探求したりできる空間と友達関係が開かれている、という言い方ができることかもしれません。

それに対して、学年やクラス、学習内容や学習方法の枠組や方向性がある程度はっきりしている学校の空間のなかでは、子どもによってはそこに馴染めにくい要素があるのかもしれません。その要素の一つは子ども集団のなかに、その子の主体性を発揮できる関係の多様性があるか、といった視点で見ることができるかもしれません。たしかに勉強を中心に秩序づけられている生活に比べて、もしかすると人間関係や子ども文化といったことが、狭くなるのかもしれません。

園生活には子どもの間だけで通じ合う表現や自慢の遊び方があったり、誰にも負けないゲーム、今度こそ食事の配膳で自分が一番に並ぼうと思えばそうできる見通し、悪ふざけができる空間、一人でぼんやりと外を眺めていられる場所、多少羽目を外しても許される空気、甘えを肯定的に受け入れてもらえる先生の存在。そうした子どもなりの戦略や子どもたちがつくり出す習慣や隠し事なども、許容されているという面があるのでしょう。

園児たちは自分と同じくらいか、ちょっと歳がうえで自分にはできなそうな、でも魅力的と思えるものをどんどん模倣して自分のものにしていきます。その影響力は大きく、親も先生も教えていないし身の覚えのないことも、子どもがやっていることから学んでいることが結構あります。たとえば昨日の1歳児クラスのブログには2歳児クラスで遊んでいる3人の様子が描かれていますね。3歳のお兄さんがマグネットでつながる電車をつなぎかたを見せてあげているのをみて、別の1歳児もレール遊びに加わっていく様子が描かれています。

また幼児のブログにはこんなことが書かれています。

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今朝のちょっとほっこりしたエピソードです。
わいわい組(3歳児)のKくんが、『おしりたんてい』の本を読んでよ〜と大人のところに持ってきたのですが、そのタイミングに、ほかのことで手が離せなかったので、「ちょっと待っててね。。」と言うと…
そばにいた らんらん組(4歳児)のMくんが「ぼくが読んであげようか?」と、頼もしいひとこと。
Kくんも、「うん」と嬉しそうです。

その後のやりとり・・・

Mくん「でも、あんまり読めないかもしれないな〜。」

Kくん「じゃあ、読めるとこだけで大丈夫だよ。」

そうして、仲良く本を読み始めたのでした。

ふたりの、お互いを思いやる かわいらしい会話にほっこりした朝でした。

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こういうことは小学校でももう少し「あり」だと思うのです。学童では実際にあるでしょう。子ども集団のもつ力ということを考えてしまいます。

 

こども基本法ができて勇気づけられること

2023/08/06

こども基本法が施行されて、勇気づけられることが増えました。子どもがその子らしく過ごすことをより積極的に肯定する保育を推進しやすくなったと感じるからです。この基本法ができたことを受けて、いろいろな研修も開かれています。

(写真は、これから何をして遊ぶか、子どもたちが話し合いながら決めていることろ。司会も子どもがやっています)

例えば、最近、東社協保育部会が主催した研修会(森田明美東洋大学名誉教授、今月10日までオンデマンドで視聴できる)を受けて、さらにその気持ちが強くなりました。その研修会で紹介されてい事例を通じて考えてみると、なおさらその感を持ちました。

私は保育でこんな先生たちの姿をよく見ます。子どものやりたいことをなんとかかなえてあげようとしていて、見ていて私が嬉しくなります。たとえば、赤ちゃんが散歩に出かけようとしているときに、玄関の方へ向かわずに、階段を登りたがる様子を見せました。そのとき、先生たちは、階段を登っていく赤ちゃんに「そっちに行きたいのね」と、にこにこしながら、散歩に行こうよー、と促しながらも、まずは赤ちゃんについていくのです。

そんな対応がふつうだと思っているのですが、いろんな方の話を聞いているとそうでもなさそうです。「こっちだよ」と、さっと抱っこしてしまって、連れ戻す先生がいてもおかしくない。あまり考えないで、そうしてしまいそう。そんな感じの対応が日本の多くの園で行われてる(きた)気がします。子どもの人権や主体性を大事にするなら、黙って抱っこしてさっさと連れてきてしまうなどということができなくなります。

その研修会で、例えば、子どもの権利条約12条に関連して、乳幼児にも「権利の保有者として意見を表明する資格」があり、その意見は「その年齢および成熟度に従い、正当に重視されるべきである」されています。つまり、前提として声なき声、いわば「ことば以前のことば」を聞き取る必要が大人の方に求められます。これは保育の基本のはずのものです。

さらに、 こう続きます。

乳幼児の参加の権利を達成するため、「おとなが子ども中心の態度をとり、乳幼児の声に耳を傾けるとともに、その尊厳および個人としての視点を尊重することが期待される」とされています。

ここまでは、受け止めやすいと思います。ところが、さらに具体的に踏み込んで、次のように解説されています。

「おとなが乳幼児の関心、理解水準および意思疎通の手段に関する好みにあわせて自分たちの期待を修正することにより、 忍耐と創造性を示すことも必要である」

どうでしょうか? ここの表現は、ちょっと大人がハッとするようなことかもしれません。この自分達の期待を修正するのは、もちろん、わたしたち大人の方です。そこには「忍耐と創造性を示すことも必要」ということは、「かなり難しいことですよ。チャレンジングなことですよ」と言うニュアンスが込められていそうですし、実際そうかもしれません。ここは噛み締めたいポイントではないかと感じます。

散歩に行きたい、でも階段の方にも気になるから行きたい、そう赤ちゃんが訴えてくるときにどこまでそれを実現させてあげるか。そこに赤ちゃんとの対話が生まれ、相互の主体性の豊かな交流が生まれているかどうか。民主的な資質の基礎となる、相互に主体的で対話を伴う人権の認め合いがあるかどうか。つまり自己発揮を尊重し合う関係が大切にされてるかどうか。それは、子供の人権を尊重した教育指導の中身と言って良いものでしょう。

ちょっと余談ですが、この研修会をうけたある先生は「わたしたちは指導ではなく子どもに寄り添うことが大切だと思いました」という趣旨の感想を述べられました。言わんとすることはわかりますし、共感します。しかし、その対比的な言葉の使い方によって何かをわかりやすく説明しているのだとすると、その前提となっている事柄を解きほぐして共通理解を図る事はなかなか難しいことなんだなぁと、考えてしまうのでした。

プールが砂場のような水場に

2023/08/04

「ねー水、出てる?」「でてるよー」

3歳時クラスの子どもたちが、プールの中で、ホースをウレタンの柔らかい筒にさしこんで、水を流し込んで遊んでいます。砂場で見かける雨どいを使った水流しの遊びのように、プールが「水場」がとても呼びたいような場所として使われています。

2人が入り口のところを、別の2人が出口のところを、そして2本のウレタンホースのつなぎ目を1人が持っています。つなぎ目のところが離れると、出口から水が出ません。子どもたちは、その違いに気づき、そこが離れないように声をかけています。

ウレタンのホースは、水に浮くので、うまく水平に保つことができ、床や砂場などで行うよりも取り扱いやすそうです。雨どいで遊ぶものとちょっと違うのは、傾斜を使って水が流れるのではなく、水道から出るホースの水の勢いがそのまま水を押し出してくるので、傾斜や斜めにすることで、水が流れると言う事とは違います。それでも入れたところとは違う、離れた場所からまた水が出てくるということが面白いようです。

ただ、雨どい等と違って、ホースなので、噴水のように垂直に立てても水が吹き出てくるのが面白く、垂直に立てて、上の方から吹き出そうとさせていました。でも、うまくパラソルの屋根の方まで水が届かず「でな〜い!」と言って遊んでいました。^_^

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