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見守る保育・子ども同士の関わり

王道は道草に有り

2023/08/16

以下のことと「子どもの人権」を結びつけることができるようになって、保育の基盤がさらに強固になってきたと感じます。以下のこととは、保育でよくある活動と活動のつながり、移動の途中だったりするタイミングのことなのですが、この「道草優先」にも、自分らしさの自己発揮の姿が垣間見られます。保育記録の「振り返り」にこう書いてありました。

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2階のお部屋に水遊びへ出発したけれど、部屋を出るなり、MちゃんHくんは、1階のロッカーのボタンを押してみたくて、ちょっと寄り道。Wちゃんも、探索がしたくて、2階は通り過ぎてそのまま階段登りへ。『水遊び』という活動の中にも、そこに行くまでにたくさんやってみたいことがあって、大人や年上の子どもたちに見守ってもらいながらゆっくり探索をすることができた。大人が、その日の活動(水遊び)の場所までストレートに連れて行ってしまうことは簡単だけれど、子どもたちにとっては、そこに行くまでの「道草」が楽しかったり、そこでさまざまな体験が待っていたりすると思うので、一人ひとりのやりたいことやその子のペースに合わせて過ごすことができるよう、これからも、大人同士でうまく連携をはかって、過ごしていきたい。

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こそうそう、こうでなくっちゃ!保育の王道は道草に有り、とでもいいたくなります。室内ならまだしも、たまには外でも、車や自転車を降りて、散歩してみたくなりますね。たっぷりの道草をしながら。こんなに暑いとそうもいかないし。早く秋来ないなかあ^_^

 

赤ちゃんたちの気遣い

2023/08/16

先生たちが見つけたものを、おすそ分けしてもらえるのが保育記録です。

しかも、保育記録は近年、写真入りになってきたので、その様子を先生たちや保護者のみなさんと共有しやすくなりました。

そして、私も赤ちゃん同士の関係のなかに、いろいろなものを見つけるのが楽しくなります。

みなさんにも紹介しましょう。

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今朝のかわいらしいひとコマです。
ちっち組(0歳児クラス)のLちゃんが寝転んでいると ぐんぐん組(1歳児クラス)のCちゃんがやってきました。

赤ちゃんのお人形を、Lちゃんに触らせてあげているようです。


気が付けば、Wちゃん(ちっち)や Rくん(ぐんぐん)も一緒に、みんなでLちゃんを囲みます。

Lちゃんが Cちゃんの髪の毛に手を伸ばすと… Cちゃんが「さわったー🎵」と嬉しそうな笑顔を向けて教えてくれました。

わざと顔を近付けて、触らせてあげたみたいです。
以前は、コロンと寝転んでじーっとしていた Lちゃんですが、今ではすっかり、こんなにも お友だちの顔を見ようと身体をねじったり、手を伸ばして触ってみようとしたりするようになりました。
そうして色んな反応が返ってきて、ぐんぐんさんたちも Lちゃんとの関わりが嬉しそうです。

Rくんも、なんだかあやしているような眼差しや仕草で Lちゃんと関わろうとしています。
Lちゃんに触れてみるRくんに、Cちゃんが「やさしく、やさしく。いいこいいこだよ」と これまたやさしく話しかけていました。


Cちゃんが Lちゃんの耳に触れると、Rくんもそっと耳に触れてみます。
「Lちゃんの おみみ、ちっちゃいね〜」「おみみ、ちっちゃーい」とふたりでお話して・・・

自分たちの耳にも触って、大きさを確かめています。かわいいです(笑)
最近は 大きい/小さい とか 多い/少ない の概念やその違いも気が付いたり興味を持ったりするようになってきているようです。

こんどはLちゃんの 手 に触れてみます。

Rくんが、Cちゃんに倣ってLちゃんの手を握ろうとすると、Cちゃんがまた「やさしくっ(触ってね)」と教えてくれます。小さいお母さんのようです😂

それから Cちゃん、Rくんの手と自分の手を合わせて

「Rくんのおてて、大きいでしょ。」

つぎに、Lちゃんの手に触れて、

「Lちゃんのおてて、小さいでしょ。」

Lちゃん、ふたりの顔を交互にきょろきょろと見回し、かと思えば じっと見つめて…CちゃんとRくんとの触れ合いを全身で感じているようでした。

すごいなあと思ったのは、Lちゃんに玩具を差し出した Cちゃんが、Lちゃんと視線を合わせて「いる?…いるっ?」と問いかけていた姿です。

 

一見、なんということもない場面にも思えるのですが、こんな小さなお友だちにも、しっかりと気持ちを聞きとろうとして やりとりしてみるその眼差しに、感動します。

Lちゃんはお返事こそまだしないものの、
“自分があげたいから” “自分がやってみたいから”という気持ちの前に、まず相手の意志を聞いてみようとする姿は、大人も子どもも関係なく、見習いたいところです。どんな小さな赤ちゃんも、しっかりと自分の意志を持っています。それを、こうして 子どもたち自身が身を持って示してくれているような気さえします。

Lちゃんには、一つひとつの言葉以上に、やさしく話しかけてもらったり 一緒にふれあってもらったりした あたたかな感覚が きっと伝わっているのではないかなぁ。。

同じくらいのお友だちとは自分の気持ちをぶつけ合ってケンカすることもあるぐんぐんさんたちですが(その姿もまた大切な育ちです!)、こうやって、小さなお友だちに触れて、そっと大切に やさしく関わろうとする姿を見ていると、それぞれの相手との関係性やふるまいを、自分たちなりに考えているんだろうなぁと感じます。頼もしいお兄さんお姉さんたちです。

子ども集団の多様性を就学後へのつなぐには

2023/08/10

研修会で考えたことの続きです。就学前と就学後では「子ども文化」がどう変容するのだろう? この夏休みになると卒園児がボランティアに来ています。今週も数人が活動しています。子どもへのかかわりがとても上手です。それこそ見守り上手、援助上手といっていいでしょう。

それと併せて、月曜のGTサミットで語られた、卒園児の保護者である渡邊さんの話も思い出します。「小学校入りたての頃は学校の先生がたは、色々な意見を言うので面倒な子たちだと思っていたみたいですが(笑)、少し経つと言わなくても自分たちで考えてやっていく子どもたちだと見方が変わっていくんです」。

ギビングツリーのメンバーはデュディス・リッチ・ハリスの考えも学んできました。彼女がいう意味で、私たちは子ども集団は、子どもの社会化の主たる要因だと考えているのですが、そこを大事にしたときに、卒園後に学校に適応できる場合と、そうでない場合があるのはどうしてでしょうか。子ども文化の多様性が失われてきている可能性はないでしょうか?というのも、次のようなことが考えられないかと思うからです。

子どもが主役というときに(こども家庭庁は、それを「こども真ん中社会」と呼んでいますが)、就学前と就学後にはある種の多様性の幅が変わってしまうのかもしれません。園生活は子ども集団の中で、誰もが主役になれるような価値の多様性、優劣の多様性が異年齢生活のなかにはあるような気がします。

子どもは、だれもがその関係を嗅ぎ分けて、その関係のなかで自分らしさを発揮できること、見つけること、選ぶことができるようにしています。興味や関心が赴く先や、安心していられる居場所がそれぞれに選べるのからです。いわば生活空間がオープンであり、安心できたり、物事を探求したりできる空間と友達関係が開かれている、という言い方ができることかもしれません。

それに対して、学年やクラス、学習内容や学習方法の枠組や方向性がある程度はっきりしている学校の空間のなかでは、子どもによってはそこに馴染めにくい要素があるのかもしれません。その要素の一つは子ども集団のなかに、その子の主体性を発揮できる関係の多様性があるか、といった視点で見ることができるかもしれません。たしかに勉強を中心に秩序づけられている生活に比べて、もしかすると人間関係や子ども文化といったことが、狭くなるのかもしれません。

園生活には子どもの間だけで通じ合う表現や自慢の遊び方があったり、誰にも負けないゲーム、今度こそ食事の配膳で自分が一番に並ぼうと思えばそうできる見通し、悪ふざけができる空間、一人でぼんやりと外を眺めていられる場所、多少羽目を外しても許される空気、甘えを肯定的に受け入れてもらえる先生の存在。そうした子どもなりの戦略や子どもたちがつくり出す習慣や隠し事なども、許容されているという面があるのでしょう。

園児たちは自分と同じくらいか、ちょっと歳がうえで自分にはできなそうな、でも魅力的と思えるものをどんどん模倣して自分のものにしていきます。その影響力は大きく、親も先生も教えていないし身の覚えのないことも、子どもがやっていることから学んでいることが結構あります。たとえば昨日の1歳児クラスのブログには2歳児クラスで遊んでいる3人の様子が描かれていますね。3歳のお兄さんがマグネットでつながる電車をつなぎかたを見せてあげているのをみて、別の1歳児もレール遊びに加わっていく様子が描かれています。

また幼児のブログにはこんなことが書かれています。

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今朝のちょっとほっこりしたエピソードです。
わいわい組(3歳児)のKくんが、『おしりたんてい』の本を読んでよ〜と大人のところに持ってきたのですが、そのタイミングに、ほかのことで手が離せなかったので、「ちょっと待っててね。。」と言うと…
そばにいた らんらん組(4歳児)のMくんが「ぼくが読んであげようか?」と、頼もしいひとこと。
Kくんも、「うん」と嬉しそうです。

その後のやりとり・・・

Mくん「でも、あんまり読めないかもしれないな〜。」

Kくん「じゃあ、読めるとこだけで大丈夫だよ。」

そうして、仲良く本を読み始めたのでした。

ふたりの、お互いを思いやる かわいらしい会話にほっこりした朝でした。

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こういうことは小学校でももう少し「あり」だと思うのです。学童では実際にあるでしょう。子ども集団のもつ力ということを考えてしまいます。

 

こども基本法ができて勇気づけられること

2023/08/06

こども基本法が施行されて、勇気づけられることが増えました。子どもがその子らしく過ごすことをより積極的に肯定する保育を推進しやすくなったと感じるからです。この基本法ができたことを受けて、いろいろな研修も開かれています。

(写真は、これから何をして遊ぶか、子どもたちが話し合いながら決めていることろ。司会も子どもがやっています)

例えば、最近、東社協保育部会が主催した研修会(森田明美東洋大学名誉教授、今月10日までオンデマンドで視聴できる)を受けて、さらにその気持ちが強くなりました。その研修会で紹介されてい事例を通じて考えてみると、なおさらその感を持ちました。

私は保育でこんな先生たちの姿をよく見ます。子どものやりたいことをなんとかかなえてあげようとしていて、見ていて私が嬉しくなります。たとえば、赤ちゃんが散歩に出かけようとしているときに、玄関の方へ向かわずに、階段を登りたがる様子を見せました。そのとき、先生たちは、階段を登っていく赤ちゃんに「そっちに行きたいのね」と、にこにこしながら、散歩に行こうよー、と促しながらも、まずは赤ちゃんについていくのです。

そんな対応がふつうだと思っているのですが、いろんな方の話を聞いているとそうでもなさそうです。「こっちだよ」と、さっと抱っこしてしまって、連れ戻す先生がいてもおかしくない。あまり考えないで、そうしてしまいそう。そんな感じの対応が日本の多くの園で行われてる(きた)気がします。子どもの人権や主体性を大事にするなら、黙って抱っこしてさっさと連れてきてしまうなどということができなくなります。

その研修会で、例えば、子どもの権利条約12条に関連して、乳幼児にも「権利の保有者として意見を表明する資格」があり、その意見は「その年齢および成熟度に従い、正当に重視されるべきである」されています。つまり、前提として声なき声、いわば「ことば以前のことば」を聞き取る必要が大人の方に求められます。これは保育の基本のはずのものです。

さらに、 こう続きます。

乳幼児の参加の権利を達成するため、「おとなが子ども中心の態度をとり、乳幼児の声に耳を傾けるとともに、その尊厳および個人としての視点を尊重することが期待される」とされています。

ここまでは、受け止めやすいと思います。ところが、さらに具体的に踏み込んで、次のように解説されています。

「おとなが乳幼児の関心、理解水準および意思疎通の手段に関する好みにあわせて自分たちの期待を修正することにより、 忍耐と創造性を示すことも必要である」

どうでしょうか? ここの表現は、ちょっと大人がハッとするようなことかもしれません。この自分達の期待を修正するのは、もちろん、わたしたち大人の方です。そこには「忍耐と創造性を示すことも必要」ということは、「かなり難しいことですよ。チャレンジングなことですよ」と言うニュアンスが込められていそうですし、実際そうかもしれません。ここは噛み締めたいポイントではないかと感じます。

散歩に行きたい、でも階段の方にも気になるから行きたい、そう赤ちゃんが訴えてくるときにどこまでそれを実現させてあげるか。そこに赤ちゃんとの対話が生まれ、相互の主体性の豊かな交流が生まれているかどうか。民主的な資質の基礎となる、相互に主体的で対話を伴う人権の認め合いがあるかどうか。つまり自己発揮を尊重し合う関係が大切にされてるかどうか。それは、子供の人権を尊重した教育指導の中身と言って良いものでしょう。

ちょっと余談ですが、この研修会をうけたある先生は「わたしたちは指導ではなく子どもに寄り添うことが大切だと思いました」という趣旨の感想を述べられました。言わんとすることはわかりますし、共感します。しかし、その対比的な言葉の使い方によって何かをわかりやすく説明しているのだとすると、その前提となっている事柄を解きほぐして共通理解を図る事はなかなか難しいことなんだなぁと、考えてしまうのでした。

プールが砂場のような水場に

2023/08/04

「ねー水、出てる?」「でてるよー」

3歳時クラスの子どもたちが、プールの中で、ホースをウレタンの柔らかい筒にさしこんで、水を流し込んで遊んでいます。砂場で見かける雨どいを使った水流しの遊びのように、プールが「水場」がとても呼びたいような場所として使われています。

2人が入り口のところを、別の2人が出口のところを、そして2本のウレタンホースのつなぎ目を1人が持っています。つなぎ目のところが離れると、出口から水が出ません。子どもたちは、その違いに気づき、そこが離れないように声をかけています。

ウレタンのホースは、水に浮くので、うまく水平に保つことができ、床や砂場などで行うよりも取り扱いやすそうです。雨どいで遊ぶものとちょっと違うのは、傾斜を使って水が流れるのではなく、水道から出るホースの水の勢いがそのまま水を押し出してくるので、傾斜や斜めにすることで、水が流れると言う事とは違います。それでも入れたところとは違う、離れた場所からまた水が出てくるということが面白いようです。

ただ、雨どい等と違って、ホースなので、噴水のように垂直に立てても水が吹き出てくるのが面白く、垂直に立てて、上の方から吹き出そうとさせていました。でも、うまくパラソルの屋根の方まで水が届かず「でな〜い!」と言って遊んでいました。^_^

ジレンマに耐えながら自分を信じること

2023/08/03

先生たちと保育のことや仕事のことを話し合うと、ある種のジレンマ、葛藤、矛盾した感情などがテーマになることがあります。それは結構おもたい話なのですが、それがつきものなのが保育という仕事かもしれません。この仕事について、すっきりと秋の青空のようにスカッと晴れ上がり、はればれとした爽快感に溢れたような時間が、一体どれくらいあるものなのでしょうか?そういう時間が多いに越したことはないでしょう。また単純に明るく楽しいという喜びを感じることも大事でしょう。それはもちろん人ぞれぞれかもしれませんし、園によって違うかもしれません。

それでも、この仕事には、これで「終わり」というものが、時間的にも質的にもなく、ずっと続いていきます。その過程には園児とのその家族が入園と退園を繰り返し、先生たちも一人の人生の大きな要素を園生活あるいは保育という仕事で占めていくことになります。保育というものは幾重にも重なりあう人生が出会い、合流し、混ざり合い、影響しあって一つの流れをなしている川のようなものかもしれません。いつも長閑な春の小川のようにサラサラといくとは限らず、たまには豪雨に見舞われて、ごうごうと濁流をなして波打つときもあるからです。保育はある意味で色々なジレンマを抱えて行うもの、というのが私の結論です。それは向上心と楽観的姿勢につながるものだからです。

この川のたとえは、一人個人の内面にも当てはまるかもしれません。保育に壁や行き詰まりを覚えたり、うまくいかないことに落ち込んでしまうこともあるからです。私もひどくナーバスになってしまった経験があって、しばらく精神的に参ってしまったことをリアルに覚えています。いまこうして仕事を続けていられるのは、私の上司が大らかに見守ってくださっているからなのですが、さらにいうと信頼してくださっていることが心の大きな支えになっています。

この「信」ということは、自分へも返っていくものです。それは迷ったり自信をなくしたりしたときに、それでも大丈夫だからついていらっしゃいというメッセージが伝わってくる関係のありようを「見守る」というのではないでしょうか。それは私が他者を信じることへ導きます。そこには暗黙の太い心の通い合いが成立している関係です。これを他者との間に作り上げていくことが、人生という川の流れのなかに残すことができたら、とても幸せなことだろうと思います。私はそんな気持ちでうちの先生たちを見守りたいと思います。ジレンマは付き物、大雨も必ず晴れるし、きっといつもの春の小川に戻るから、と。

ゼミ生たちと実践を語り合う

2023/08/02

今日はある大学の先生と保育所を目指しているゼミ生4人が見学にいらっしゃいました。午前中見学をしていただいた後、午後、主任を交えてディスカッションをしました。学生さん達をいろんなところに見学に連れていかれているそうです。

保育を見て感じたことを話し合う。他者の考えに触れ、自分の考えを振り返る。子どもの姿、園の環境、保育者の様子、子どもとの接し方、そこに流れている考え方、いろんなことが話題になりました。それは私にとっても勉強になる時間です。

目の前に展開されている光景の中から、どんな事例を拾い出して話し合うことになるのでしょう。それは、そこに集う、当事者たちの関心や印象的な出来事が話題の輪郭を作り上げていくことになります。

例えば園のパンフレットには「保育目標」として、子どもの姿が4つ書いてあるのですが、3つ目には「自分を好きになれる子ども(自尊感情を持てる子ども)」とかいてあります。

学生さんの1人から「どうやったらそうなるのか」と聞かれました。この保育目標を作ったのは私ですが、さぁ、改めて聞かれるとどう説明するか。私の代わりに主任がエピソードを交えて説明してくれました。それを聞いていて「なるほど」と感心しました。このような会話は、いつもいる園のメンバーだけではなかなか生じません。見学をしあったり、公開保育を行ったりすると、このようなことがよく起きます。

今週は屋上でのプールの入り方を変更しています。基本はカニやラッコ、イルカなど、いわば「習熟度別」に子どもが選択するのですが、今週は子どもの姿から3歳児だけクラスで入るようにしたのです。水遊びやプールが好きなはずの子どもが入りたがらないのを不思議に思ったからだというのです。これは、ざっくり言うと、子どもの姿に基づく環境の再構成です。

その話を聞いていて、人間関係の再構築ために選択の方法を変更したことになるのだなと想像していたのですが、主任の話は、もっと柔軟で微妙な広がりのある話し方をしていました。そこに、生き生きとした実践の深さのようなものが脈打っているのです。

それでも、言葉で語ることを放棄せず、実践に迫り続ける語りを積み重ねあうことの大切さを確認できた時間になりました。ありがたいことです。

にちよう開放 しずくの会

2023/07/23

今日は「にちよう開放」。しずくの会が開いてくださいました。

今回はすべてのフロアを開放して、乳児から幼児まですべてのクラスで過ごしてもらいました。

私は建築設備検査の立ち合いがあるので、ついでに開放したのですが、卒園児の親子とも久しぶりに再会できて、一緒に昼食を食べたりして楽しい時間になりました。

これは「しずくの会」作成の案内。毎回、素敵なデザインです。

自己理解が育つような選択と判断

2023/07/12

今年の夏、初めてプールに水を溜めて遊びました。プールの中での遊び方は様々ですが、どの子も楽しく遊べるための目安は、顔に水がかかっても平気かどうかと言うあたりに、基準があります。そこで、水遊びに慣れてくると顔に水がかかっても平気になり、水に顔をつけたり潜ったりできるようになります。水に浮いたり泳いだりできるためには、どうしても、そこに一つのハードルがあるのです。

そこで、四半世紀にわたって当法人がやってきた方法が、そこを基準に遊びを3種類程度にわけて、子どもが選べるようにしてきました。顔に水がかからないように遊ぶグループを「カニ」グループ。潜ったりバシャバシャと水を掛け合ったりできるグループを「イルカ」グループ。その中間ぐらいを「ラッコ」グループとします。カニやラッコやイルカは、子どもにそのイメージが伝わりやすいので、そうしてきました。

すると、子どもたちは「楽しそう」と思う遊びをやりたいので、それに従って選ぶのです。この基準を水との関わり方の「習熟」と捉えることもできるし、バリエーションと捉えることもできますが、それは、その都度、子どもそれぞれが判断する内容は違うものでしょう。その日によって違うグループを選ぶようになるからです。

この選択と判断を繰り返していると、環境との関わり方、つまり、水との付き合い方のバリエーションが増え、結果的に自己理解が進むと考えています。水についてと自分のこと、水との関わり方への理解が深まっていくと同時に、もっとこうしたい、こうでありたいと言う意欲も強くなっていくのです。

また忘れてならないのは、結果的にその都度選ばれて作られるその集団は、年齢別クラスではないので、多様ざまな人間関係を体験することになり、人との関わり方も上手になっていくのです。

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