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園長の日記

育ちを「支える」という意味

2021/07/17

子どもにとって自分からは言えないけど、大人に言ってもらえたことで、救われた思いになることってあるだろうなあ、と感じます。せいがの森保育園の頃なので、ずいぶん前のことですが、散歩から帰ってきた子どもたちの中に、玄関に一人立ちすくんでいた4歳の女の子がいました。泣いているだけで、部屋へ入ろうとしません。先生たちも「どうしたの?」と聞いてはいるのですが、泣くばかりで答えてくれないので、諦めて「お昼ご飯を食べに行こう」と誘ったり、気を紛らわしてあげようと、いろいろなことに注意を向けさせてあげようとしています。でも、大切なことを言ってあげていないと感じたので、私は次のように言いました。すると、その子は泣き止もうとして、私に気持ちを打ち明けてくれました。私はこう言ったのです。「部屋に入りたくないなら、入らなくていいよ」と言い、そして「困っていることをあったら言ってごらん、手伝ってあげるよ」と付け加えたのです。

その子は涙を堪えながら、玄関の方を振り向いて、今来た道の方をみて、ミミズを無くしたと話してくれました。どうしたらいいか分からなくなって泣いていたのです。私は一緒に探しについて行きました。ミミズは見つからなかったのですが、その子の気持ちは切り替わっていました。泣いていた時はきっと、自分がどうしたらよいのか、混乱していたことでしょう。でも人間には言葉があります。言葉は気持ちに形と安心を与えます。自分がどうしたかったのか、自分の気持ちが自分で見えるようになり、フリーズしていた気持ちがまた動き出したのです。

保育は「育ちを支える」という言い方をします。この「支える」というのは、何をどこまで支えるといいのでしょうか。それは「支える」のですから、代わりに全部やってあげるのではありません。主体は子ども自身です。子どもが自分でやるという主導権は持ちながら、それが叶えられるように、あるところまで支えてあげるということです。玄関に立ちすくんでいたその子にとって、「いま部屋に入らなくていいし、いなくなったミミズを一緒に探してもらえる!」と思えたら、そこから「自分で」やってみようという気持ちが生まれるでしょう。支えるのは、気持ちや思いを理解してあげたり、共感してあげるところまで、が大事なのです。

同じことが、今日の「ちっち・ぐんぐん」のブログにも書かれています。「タオルでふく?」と聞いてあげることは、案外できそうで、できないことかもしれません。大人の方が気持ちに余裕がなかったり、忙しく感じていたりしたら、そこまで歩み寄れないかもしれません。子どもが黙っているけど「自分もやってみたいなあ」と感じているように見えるとき、「タオルでふく?」と聞いてあげることは、子どもにとっては「やっていいよ」とほぼイコールに聞こえるはず。自分の気持ちがわかってもらえた、気持ちが通じた、私の気持ちに触ってもらえた、と感じたのと同じですから、質問形であっても、それは承認されたのも同然の、力強い後押しになったとこでしょう。あとは「うん」と答えやすいし、そこまで支えてもらえたら、もうすぐに行動に移ることが出来たことからも、それがわかります。

今日は土曜日で、登園した子は少なかったのですが、午後のおやつのあと運動ゾーンで2時間ほど遊びました。園長ライオンや、三びきのこぶた、警察と泥棒などのごっこ遊びと、円盤に乗っての宇宙旅行などを楽しみました。言葉の力は大きくて、子どもたちの心を、想像と物語の世界に連れて行き、そこで心の羽を存分に広げていました。そんな遊びに夢中になっている時、子どもの心のシワが伸びて、音を立てて根から水を吸い上げる樹木の芽のように、気持ちがふっくらと、ふくらんでいくことがわかります。こんな時間が絶対に子どもには必要なのです。子どもは、本当に心の底が躍動するような時間を求めているのです。

ウェルビーングとしての水遊び

2021/07/16

教育目標は子どもの姿で表すことが教育界の常識なのですが、保育目標も同じです。千代田せいが保育園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。この言葉は私がせいがの森こども園時代に、作ったものですが、そのとき苦心したのは、能力主義にならないようにすることでした。どういうことかというと、発達というのは「その人らしさ」が、ありのままに発現していくことなのですが、それは環境との関係で変わってきます。これをウェルビーングといいます。私はこれを「自分らしく」と表現しました。

たとえば今日、プールに入って遊んでいる子どもたちを見ていると、バシャバシャ水飛沫をかけあったり、水に潜ったりして遊んでいました。「イルカグループ」です。

これを選んでいるのは、3歳の子も、4歳の子も、5歳の子もいました。水との関わり方が、この子たちには「合っている」ので、どの子も「自分らしく」遊べていたのです。顔に水がかからずに遊びたいなら「カニグループ」で遊べます。潜ることはないけど、顔が水に濡れるぐらいは平気なら「ラッコグループ」が合っているのです。

この3つに優劣はありません。イルカの方が何がが優れているということではありません。泳ぐことができるとか、潜れるとか、そういう「ものさし」でみれは、蟹よりラッコやイルカが「優れている」ということになります。でも蟹は早く泳ぐことができることを求められているわけではなく、蟹らしく水と共生しています。ラッコも同じです。別にイルカのように、スイスイ泳げることが水との関係ではありません。蟹らしく、ラッコらしく、イルカらしく水と共生して豊かな活動をしているのと同じように、それぞれのグループらしい遊びができるし、その遊びで得ている力も大きいのです。

人間の能力を一つの「ものさし」で比較して並べるということをしてはならないのです。人の個性は多様です。外部から期待される能力を誰もが獲得するように期待されてしまうと、その力に向いていない個性は気の毒なことになってしまいます。人間の特性は多様にできていて、その特性に向いた学びや職業を選択できるようになるとよいのです。人間の特性は、旧石器時代からの長い時間をかけて環境に適応して進化してきた脳と身体の賜物です。その特性はそう簡単に変わるものではありません。

しかし、現代の生活環境は、人工的に激しく変わりすぎました。自然の産物である人間に、その特性に合わないような生活環境を押し付けてはいけないのですが、残念なことにそうなってしまいました。現実はこの200年の間、産業革命以降にできた工場労働者の「能力」を評価して選別するために始まった「学校」での学力評価は、今でも形を変えて「産業界」が「ものさし」に影響を与え続けています。まだ「自分らしく」に合った学びの環境を取り戻していません。

私たちが生命体である以上、そこには「意欲」があって、それが働くように生きることが幸せな人生に通じます。意欲的であるということは、生き生きとした生命の躍動ですから、そうなることは能力主義ではありません。誰もがもともと持っているものを発現することです。そして「思いやり」は、まさしく個人の能力に還元するものではなく、他者がいて初めて自分が成り立つような関係です。思いやりは、本来、個人的な能力として測定することはできないものです。個人の能力ではなく、関係の質の発達と捉えるべきものなのです。

発達障がいにしてもそうです。多動性は活動性が高いと思えばよく、衝動性は瞬発力が高いということです。スポーツ選手や起業家には、そのような個性の人がたくさんいます。先日、家具メーカーの株式会社ニトリの創業者である似鳥昭雄さんが「最近、私はADHDだということがわかった」とテレビで話していました。私がよく知っているIT関連の社長もADHDです。探究心が求められる研究者や科学者には、こだわりの強い特性を持っている人が成功しています。脳と身体に合っていない環境とのミスマッチ。このデザインをし直すことが、本来の教育改革でなければならないのですが、残念ながら、そうしたウェルビーングの視点からの教育改革は始まる気配がありません。

 

 

決まりの葛藤の中で学ぶ人との関わり

2021/06/21

決まりがどこまで適応されるのか、というのは、子どもにとって大問題になる時があります。自分はだめだったのに◯◯ちゃんはやっている、とかで揉める、アレです。この子どもの素朴な平等感がいつ頃、どのように芽生えてくるのかは面白いテーマなのですが、それはさておき、この手の矛盾を保育ではどう受け止めていくか? 大抵の場合は「やりたいけどやっちゃダメ」という場面で生じます。

もうお終いにして次のことをしないといけないとき。例えば今朝もありました。運動ゾーンで遊ぶには、今やっていた遊びを片付けてから移動するとか、人数が決まっているときはマグネットを移動するとか、靴下を脱ぐとか、あと好きなことを1回やって終わるとか、色々なところに「決まり」が出てきます。

子どもにとって不満が溜まるのは、自分は我慢しているのに、◯◯ちゃんは・・・というパターンです。この場合、◯◯ちゃんが、まだわいわい(3歳)だったりすると、そんなに問題になりません。まだ仕方ないよね、で年上の子どもたちには例外と共有できるからです。でも、それが同じ年齢同士になると「なんで自分だけ・・」のようになりがちです。それも余裕があるときは、自分もそうしている時があるから「お互い様」を自分にも当てはめることができるようになります。ようするに、お互いに「大目にみる」ことができるようになっていくのです。

しかし3歳ぐらい同士だと、まだそれができません。自分を高い棚の上に置いておいて「悪いのは◯◯ちゃん」で押し通すことが、この頃の自己主張なので、もう少し、育ちを待ってあげる必要があります。

こんな育ちを包み込むためにも、兄弟関係のような異年齢関係は、クッション材のように、年上の子が間に入ったり、それをそっとそばで見守ってあげたりすることがあります。そんな子は、どの子にもとても人気があります。子どもの中での気遣いは、子供同士でも心が通い合うもので、その紳士的な子はモテるようになります。また子ども同士にも信頼関係というものの濃淡があって、その不平等感を、周りの大人が同じように扱おうとしても、それはまたうまくいくものではありません。人間関係や信頼関係は、「育つ」ものだからです。子どももたちは、決まりをめぐる葛藤の中で「人と関わるスキル」を培っています。これも大事な経験ですね。

第55回保育環境セミナー 空間的環境(後編)実践から学ぶ

2021/06/19

今日は第55回保育環境セミナーの2回目が開かれました。今年度の一貫したテーマは「環境を通した保育」の環境についてですが、5月と6月はその中の「空間」についてです。前回の藤森先生の講義による理論篇に続き、今日は実践編となります。(1回目は5月29日の園長の日記を参照ください)参加者は会場参加の他に、オンラインで北は青森から南は沖縄まで、98施設述べ130名以上の参加者がありました。今回の司会は私がしました。

実践事例は、藤森先生が最初に創った八王子市の「省我保育園」(1978年開園)と、私が2018年までいた「せいがの森こども園」(1997年開園)の二つです。新宿せいが子ども園の森口先生による楽しい報告になりました。

保育環境は空間や物や人が含まれるわけですが、人だけは相互作用が特別なので人的環境は意味づけが異なります。また今回の空間も、室内も戸外も自然環境も宇宙もいわば全ての空間世界が含まれるわけですが、保育の場合は子どもにとっての生活圏、と考えます。具体的な生活の中での行動範囲と捉え直し、その動線の中での出会いをデザインします。

そうすると、園舎内だけが生活圏ではなく、散歩先や戸外活動の行き先も「空間としての保育環境」となります。その事例として2つの園を事例から振り返ってみると、要点は子どもにとっての「生活の場」として、どんな体験ができるような空間設計になっているか、ということです。思わず遊びたくなるような、子どもが主体となるような生活ができること。そこには一人一人にとって大切なこと、子ども同士の関わりが生まれるようなものが大切になります。

保育所保育指針には次のような4事項が「保育の環境」の留意点になっています。

ア 子ども自らが環境に関わり、自発的に活動し、様々な経験を積んでいくことができるよう配慮すること。

イ 子どもの活動が豊かに展開されるよう、保育所の設備や環境を整え、保育所の保健的環境や安全の確保などに努めること。

ウ 保育室は、温かな親しみとくつろぎの場となるとともに、生き生きと活動できる場となるように配慮すること。

エ 子どもが人と関わる力を育てていくため、子ども自らが周囲の子どもや大人と関わっていくことができる環境を整えること。

この4つの留意点を具体化したものを再確認しました。

ブランコでのコミュニケーション

2021/06/18

朝、運動ゾーンで「ブランコ」を楽しみました。園庭がない保育園ですが、運動ゾーンでは取り外しのできる遊具が何種類かあって、今年度からブランコもやっています。今日の朝の運動は、ネット、クライミング、トランポリンの他に、このブランコとスイングボール(大きな赤い球)、それから子どもたちが「豆ちゃん」と呼んでいる緑色の袋状のものを天井から吊るしました。

人気のある遊具は「次は◯◯ちゃん(自分の名前)」「ちがうよ、◯◯くん(自分の名前)だよ」と、順番争いが起きることがよくあります。そんな時、今朝は3歳児わいわい組の3人の女子たちだったのですが「じゃあ、ジャンケンね」と言って自分たちで決めようとしていました。大人が差配してしまうのではなくて、どうするかそばで見守っていたのですが、ここまで成長したんだなあ、と感心です。と言っても、負けた子が納得できなくて「嫌だ〜」とはいって、一旦は不満を口にしていましたが、それでも渋々、その次は自分の番だと待つ事ができました。

しばらくブランコに乗っていて、なかなか終わらないと、今度は「代わってくれない」と不満を訴えてきます。そんな時は「代わって」って頼めばいいんだよと教えてきました。言われた方も「黙っていないで、もうちょっと待って、とかあと少しとか、ちゃんと返事をしよう」と教えます。こうして、言葉のキャッチボールの仕方を伝えています。「もう少し待ってて」と言われたら「じゃあ、あとどれくらい?」と聞けばいいんだよ、とか、そう言われたら「あと10数えるまで」とか、自分で考えて返事しようね、という具合です。

自分の思いや考えを言葉で伝えようとする、そんな姿を育てたいのですが、ブランコの場合は、「あといくつ」を数えやすい。漕ぐたびに、い〜ち、に〜い、さーん・・・と数えていました。生活の中で数を数えるという場面は、こんなところにもあります。人数が増えてきたところで、ストップウォッチをつかって1分交代にしたのですが、その時はスマホの画面に表れる秒数を1から60まで読み上げるのが楽しそうでした。

ケアリングが見守る保育

2021/05/21

先生たちが「子どもの関わり方」を大事に見守っている様子に、私はとても安心します。子どもが対象をケアしていることを、大人がケアしているという関係が「見守る」ことの本質だからです。ここでいうケアとは、子どもが熱中して対象と「やりとり」が生じるような環境を用意してあげることも含まれます。その様子の報告がブログで続いています。

例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子が、ぐんぐん(1歳児クラス)のおともだちの靴をはかせてあげている姿と、それを温かく見守っている先生の眼差し。そのかかわりに注目してブログに取り上げたいほど、先生がその育ちや「やりとり」に「善さ」を見出し、またその「やりとり」の中に自然な「思い遣り」の姿を描いています。

ここでいう「自然さ」というのは、協力することの自然さです。報酬系とは無縁な脳の働きが生じています。これは強い。褒められたり、励まされてやっていることではありません。承認欲求からの行動ではないのです。「大人の出る幕はありません」という言葉が、見守れていることを意味します。

そうなんです。私は研修会で見守る保育の説明を求められた時、大人が見守るのが大事なのではなく、見守れるように子どもが育つことが大事なんです、という話から入ります。そうなるためには3つの条件が必要ですよ、と。一つが子どもの主体性を尊重すること。二つ目が意欲的にかかわることができる選択できる環境を用意すること。そして三つ目が、子ども同士のやりとりが生じるような場を用意すること。この3つです。

これが「環境を通した保育」という意味なんですが、多くの保育園との違いは、大人が、いちいち褒めたり、子どもがことさら「みてみて」と承認欲求を求めてきません。子どもに自信が育ち、大人にかまってもらう必要性が減っているのです。子どもは困った時は先生が助けてくれるという「信頼」を持っています。先生の方も、子ども同士の世界に過度に介入しません。

わいらんすいの子どもたちが「生き物」に、こんなにも心奪われている様子が、数枚の写真に表れています。カブトムシの幼虫が土(腐葉土)に、モソモソと潜りこんでいく様子を、じっと見つめている表情。ここにはカブトムシへの愛すら感じますよね。

さらに私が感動し、微笑ましく思ったのは、ずらりと並んで虫に見入っている「佐久間橋児童遊園の背中」の写真です。これはすごく面白い。写真コンクールに応募したくなるような一枚です。副タイトルは「都会の自然、子どもたちが見つめているもの」です。こんなところに、子どもたちが熱中するものがある、という子どもの目線を大切にしてあげたい。この背中の先に何があるんだろうと、関心を持ってあげる大人でありたい。そこが大人が持ちたい子どもへの眼差しであり、心配りとしてのケアリング(思い遣り)になります。

 

生活を作り出すための意見表明

2021/05/13

朝8時50分。3階では「どのゾーンを開けますか?」という話し合いが始まっています。聞いているのは先生ではなくて、子どもです。開けるゾーンを決める話し合いは、子どもたちが話し合って決めています。この話し合いに参加することは大きな意味があるような気がします。何かを決めることにコミットするからです。自分にも返ってくる意思決定への参画は、世界中で保育のキーワードになっています。生活への参画権です。与えられたものを従順に守れる資質ではなく、やりたいことを主張して勝ち取っていく民主的プロセスを、幼児の時から経験していくことは大事です。

この意思決定のプロセス参加は、物事を「我が事」として考える習慣に導き、自由と責任を学ぶことに通じるのです。誰かがどこかで決めたことを守れるということではなく、今この目の前で決まる場面に立ち合い、自分がどうしたいのか自己に向き合い、自分の考えをまとめます。そのためには、他人の話も聞かなければなりません。

9時半から10時までの間にある朝の会でも、その日何をするか話し合います。また夕方のお集まりでも、その後の遊び方を提案し合います。このように、1日の中に自分の考えを意見表明する機会が3〜4回あるのですが、その毎日の繰り返しはシチズンシップを身につけていくことになっています。

自分らしさを取り戻すために

2021/04/16

私は子どもたちが覆っている目に見えない殻を取り去ってあげています。そんなふうに感じる時があります。じゃれあって笑い転げて、お腹が捻れるくらいに、腹の底から声を出してみるような体験です。そんな時に気づきます。この子たちは、自分でも知らない間に、目に見えない被り物の中で生きている時があるんだなあ、と。

すると、ほら、出てきた、出てきた、本物の自分が。被り物を捨て去ってみると、そこにムクムクと出てきます。その子の素顔が出てきます。子どもと一緒にいると、こんな感覚になることがあるんです。そうだよ、そこを出しちゃっていいんだよと。

この子たちは私たちが死んだ後の時代を生きていきます。次の時代の担い手だからこそ、「子どもは未来」だとじんわりと思います。だから、その未来の時代は今よりももっといい時代になっていて欲しい。でも、その前にこの子たちは現在(いま)を最もよく生きていてほしい。現在を最もよく生きながら、しかも望ましい未来を作り出す力の基礎も育ててあげたい。確かに、こういう趣旨のことが、保育所保育の原理、保育の目標になっています。でも言うのは簡単ですが、こんなに都合のいい話を実現できるほど、私たち大人は賢いとも思えません。

目の前の子どもが、まだ言葉で表せない思いを抱えていたりします。それは決して同じ思いではありません。それぞれが異なっているし、異なっている今を生きています。こうしたい、ああしたいといういろんな気持ちを抱えている子どもたちが目の前で、笑ったり、泣いたり、怒ったり、怖がったり、いろいろです。その様々な思いは、いろいろな形と色いあいを持っていて、聞こえてくる音色もそれぞれです。

しかし、違う形や色合いや音色であっても、どこ子にも同じエネルギーを放っています。それはこの世に宿った生命の躍動から発しているものです。この子どもの「一途なもの」をもっと愛しみたいという想いにかられます。

子どもが自分でも忘れてしまうことさえある、一途な心への共感を子育ての真ん中に、揺るがぬように据えてしっかりと見守っていたい。子どもは必ず自分で歩き始めます。本当に「自分で」歩き始めるということを信じましょう。そうでないと、いつの間にか「いい子の仮面」をかぶって生きていることになってしまうからです。

存在を喜び合うちっち・ぐんぐんの朝の会

2021/04/15

「◯◯ちゃ〜ん」、と子どもの名前を呼ぶと、ちょうど1歳になるKちゃんが、嬉しそうに「は〜い」と手をあげてパチパチします。周りの子たちもパチパチしています。ほんの半月前までは「集団」を知らなかったはずの子が、ちゃんとご返事ができる、ということに先生たちの間に温かい歓声があがりました。名前を呼び合う間柄になるということは、あなたがそこにいることだけで、私たちは嬉しいということを確認していることになっています。

0歳の子たちにとって、気持ちが通じ合うということは大切な「社会的発達」の経験になっています。1歳ごろと言えば、自分と相手と世界の3つが「表象」によってつながり合っていく時期です。自分が先生から「◯◯ちゃ〜ん」と呼ばれることも、自分についての「◯◯ちゃ〜ん」という自己イメージをもてていることになります。「は〜い」と応答できているということは、自分についての自己イメージ(表象)と「◯◯ちゃ〜ん」と声を自分に結びつけるという三項関係が成立しており、言葉がで始める前の発達の条件が整っていることがわかります。

このことは家庭でも起きることですが、集団があると、このように「声」をかけてくれる他者の存在があり、そばに模倣したくなる対象がたくさんあることになります。そのやり取りの中で、それを喜んでくれたり、嬉しがってくれたりすることで「気持ちが通じ合う」という社会的な発達の経験になっているのです。楽しい体験はまたやりたい、また僕のこと、私のことを呼んで!認めて!という存在自体への承認欲求が満たされていくことになります。

朝のお集まりは、今日も元気にいるね!という、お互いの存在を確認し合うことになっています。出席をとるということの本来の目的です。そこに存在すること自体の重要性を感じあっています。これは自信の育ちにも関わっています。無条件の自信が他者と信頼し合う関係に育ちます。1歳ごろまでに気持ちを通じ合わせる中で「人と関わること」そものもが発達の経験になっているのです。

利他性が発揮されている毎日

2021/04/14

今週4月12日(月)から、東京でコロナ感染の蔓延防止対策が始まったわけですが、「春に三日の晴れなし」と言われるように、春は意外とカラリと腫れた日が少ないもの。ちょっとでも晴れていたら「外遊び」を取り入れたいと考えています。今日14日は雨だったので、室内やベランダでの様子がクラスブログで紹介されています。

そこで見られる姿は、面白いことに子どもたちが元々もっている「利他性」が発揮されていることです。利他的という言葉はちょっと難しい言い回しですが、「利己的」の反対です。自分にとっては直接メリットがなく他人のために役立つような行為です。そうした「態度」は、お手伝いをやりたがる、率先して掃除や片付けを手伝う、お友達の気持ちに気づいて優しく接する、楽しそうな遊びをお友達にも伝える・・・そうした姿の中に見出されます。

千代田せいが保育園の保育が何を目指しているのかというと、色々な言い方ができるのですが、子どもの育ちゆく姿としては「保育目標」というものがあります。学校だったら教室の前に額縁に入れて掲げてある「教育目標」と同じ位置付けのものです。保育園も幼稚園も学校も、それは子どもを主語に書かれています。例えば和泉小学校は「人にやさしく 自分につよく 明るく 元気な 和泉の子」です。省略してありますが、主語が「子どもは」になっているでしょ。社会性、克己心、内面性、健康などの要素が盛り込まれていますね。注目して欲しいのは、トップに「人にやさしく」と利他性を含む人間性が掲げられているということです。

千代田せいが保育園の場合は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」です。思いやりというのは、他人への「共感」の育ちがベースになるのですが、その育ちの基盤は持って生まれたもの(つまり教えて学んだものではなく、生得的に持って生まれるもの)と言われる模倣の力です。じっと見て真似をするという力が、相手の心の動きを想像しながらなぞるようにイミテーションできる力のことです。

したがって、心をなぞりたい!、一緒になりたい!と愛着を持てる対象がそばにいなければ、模倣する対象をもてませんし、共感体験が生じません。ちっちやぐんぐんやにこにこの頃から、その体験を積み重ねていく中で、他人への信頼感を獲得しながら、言葉も獲得し、やさしさを育て、思いやりという心の姿勢を形作ることができるようになっていくのです。この育ちのまとまりを利他性の発達と言います。SDGsなど持続可能な社会を実現できるかどうかは、保育のテーマとして捉えなおせば、この心の姿勢を育てることに他ならないのです。

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